正月の夕飯時にテレビで「芸能人格付けチェック」というのをやっていたので、見るともなく見ていたら、「プロとアマのブラスバンド」とか「高級品と初心者用の弦楽器」を聴き分けるというクイズをやっていた。
後者は「同じプロの演奏、同じ曲で、ストラディヴァリ他4台合計四十数億円の楽器と、4台合計で百万円余りの楽器を聴き分ける」という企画で、聴き分けられなければ一流芸能人失格という話だった。それで結論から言えば、私の場合(晩酌をやりながら、聴くともなく聞いていたという弁解はあるのだが)感想は両方とも「綺麗に弾くな~」という極めてシンプルな印象である。
こんな音楽関連のブログを書いていて、お前に音楽を語る資格はないと切って捨てられそうだが、事実だから仕方がない。二つの演奏のうち一方はどれも20~30万の楽器ということなので、「自分がいつも、いい音が出ないのを楽器のせいにしているのは間違っている」という厳しい現実に気づいたこととともに、これが聴き分けられるということはどういう意味なのか、という新たな疑問が生じた。
このクイズは「同じ奏者が同じ弓(多分)で同じテクニックで自分の普段使いでない二つの楽器を演奏して、どちらがいい音か聴き分けられる」ということを要求しているわけである。その後SNSを見るといろいろな見解があり、「聴き分けられない人間は耳に問題がある」といった高邁な意見から、「録音の悪さ、テレビという環境などから聴き分けられるわけがない」「わざと違う弾き方をしている」「あの程度のテクニックでは違いが出ない」(私は『プロは普通に上手いな~』と思ったのだが)その他、喧々諤々のようである。
そもそも、これはどういう認識を求めているのだろうか。楽器の種類、例えばおもちゃのピアノとスタインウェイでは出る音自体がまったく異なっていて、「こちらが本物のピアノ」という判断をするのに誰しも迷うことはない。しかし、例えばストラディヴァリとグァルネリを並べて「こちらがストラディヴァリ」という判断をするためには、普段からストラディヴァリを(しかも普段弾いていない楽器を弾いた場合の音を)聞き慣れていなくてはならない。おそらくこの問題は、そういう知識を求めているわけではなく、単に「どちらが美しいか」ということを問うているのだと思うのだが、そうなると話は「ヴァイオリンの音は、どういう音が美しいのか」という問題になってくる。
で、「美しい」ことを定義しようと思うと、これがなかなか難しい。いかに何でもストラディヴァリの音は安物より美しいだろう、と言われるかもしれないが、何故そう言い切れるのかは定かではない。美しいモノとは鑑賞する者に感動を与えるものだ、という定義はいかにも本当らしいが、そういうモノの性質を規定しようと思うと、これまた人さまざまと言うことになってしまう。
私に言わせれば、「美しいモノ」は「<私に>感動を与えるもの」以外の何物でもない。感動を与えるということの意味についてはまた稿を改めて論じたいが(拙著の第2章に若干触れている)、「美」を一種の真理、万人にとって固定したターゲットする考え方は、何らかの点において破綻すると思われるのだ。とは言え「美人コンテスト」が成立するように、音楽には「名曲」というものがあり、「ストラディヴァリ」についても「名器」という定評がある。それはそれらのものが保有する特質に通用的価値があるからだ。そのように考えてくれば、ストラディヴァリの特定の音を「美しい」と思うような意識を持つことが本当に音楽の享受において必須の要素なのか、という問題に突き当たる。
他の分野、例えば味覚や嗅覚についても、このような感覚の鋭敏さが問われるものがある。例えばワインをテイスティングして銘柄や年代を当てるソムリエは、グルメにとっては必須の存在かも知れないし、「香道」において様々な香を区別するゲームは面白いに違いないと思う。しかしそれらはあくまでその道を究めた人たちの楽しみである。そういうものを「ハイカルチャー」と呼んでもいいと思うが、それに対する「ポップカルチャー」の重要性を軽視すべきではない。ベートーヴェンの交響曲は至高の芸術かもしれないが、これが「古典派」というポップカルチャーの成立を通じて誕生したことを忘れてはならない。
自慢ではないが、うちの家にはワインの他にビール、日本酒、紹興酒、焼酎その他のスピリッツ、リキュール類が常備してあり、必要に応じて使い分けている。これはワインの飲み分けに比べると典型的なポップカルチャーだと思うが、「区別すること」による楽しみを享受していることにおいて違いはない。生物は環境を分節し、その中から生存のための資源を選択するが、人間においては生存における戦略として「多様性」が重視され、それは意識に対する資源である「文化」における多様性にも繋がっている。そういう多様性に対する感性は部分においても、また全体においても見出されるだろう。こういった感性は「真理」のような単一のターゲットではなく、個人による差異を前提にするもので、個人により選好の在り方もさることながら、対象の分節の仕方も大きく異なることは間違いない。
開き直って言えば、私は食卓に上がってきたものにどの種の酒が合うかを気にすることはあるが(日本の家庭の食事は世界的にも多様性が高いようである)、ワインがどこのシャトー産であるかが分かることは私にはほとんどメリットはない。同様に、私はホームページに書いたようにオーディオの音の違いには不案内だが、それは最近耳の老化が進んできたことや、高いオーディオ装置を購入する小遣いの余裕がないということ以前に、興味の対象が音楽の様式に特化しているということを意味している。私は下手の横好きで作曲もするが、それはこのように「音楽の様式」への興味が優先したことが原因である。つまり、人によって関心のある分野が異なり、ある分野については細かく、そうでない分野については大括りであることは、きわめて普通の現象であると思われる。私の場合音楽の好みは極めて間口が広く浅く、ジャズもポップスも演歌も民族音楽も、何でも聴くに値する美点があると思うのだが、興味の中心は1890~1940年の間のクラシックで、それはこの時代に作られたものが最も様式の振れ幅が大きいと考えるからである。
「鋭敏さ」自体も非常に幅の大きい表現だ。上記のような、感覚的刺激に対する鋭敏さ(これは平均的には女性の方が男性より高いらしい)もある一方で、言語や論理に対する鋭さもあれば、対人関係などの感性の敏感さもある。それらはそれぞれの必要性や興味のあり方によって間口の大きさ、内容の深さや細かさが異なっている。
要するに何が言いたいかと言えば、鋭敏さにはいろいろな対象とレベルがあり、その一種、一つのレベルを追求することはほかの視点を失う可能性もあるのであって、我々はみんなそのバランスの上に生きている、ということである。ハイカルチャー的なミクロの鋭敏さも、ポップカルチャー的な大雑把な分類に対する選好も、いずれもその与える感動に優劣をつけることはできない。また、一つの視点を掘り下げている間、ほかの視点に対して我々はある程度鈍感でなくては精神のバランスが取れないだろう。私はこれを「鈍感力」と呼んでいるのだが、これについては別に稿を改めて論じたい。
また、特定項目に対する「鋭敏さ」が「真の美」に迫るための道具であって、万人がそれを目指すべきであるという考え方にも、十分に注意する必要がある。正直私は既述のように音の良さに感性があるとは言えないが、それでも曲を聴いている最中に鳴っている音の「美しさ」にはっとすることはある。「名演」の聴き分けも守備範囲外なのだが、それでも自分の曲を他人に演奏してもらう時には、感謝しながらも注文を付けることが多いし、特定の曲にはそれを最もよく表現している(認識させる)演奏形態があると思っている。しかしそれらはいずれも自分にとっての「美」であり、つまるところは「自分が対象を最もよく享受できる(認識できる)方法」である。そのような形態がかなりの程度人間一般に共通するからと言って、特定の形態を真の美であると強制されなければならないことはあり得ない。
この番組は毎年新春にやっているそうだが、毎回全問正解しているタレントがいるということなので、上記の考察を無効にするような、あらゆる分野で「美のイデア(?)」に対する感性の鋭さを発揮できる人がいることも認める必要があるのかもしれない。そういう感性は本人の高度な美の世界を築き上げるのに貢献しているのだろうが、凡人は凡人なりの美の世界の構造を持っているのであって、必ずしも羨む必要はない、と負け惜しみでなく言うことができる。自分の「好み」の世界を限定せず、その幅を広げるべく努力することは必要だが、拙著の冒頭に書いたように「音楽は自分が聴いていいと思うモノがいい音楽である」ことを、新春早々改めて自分に言い聞かせた番組だった。(やはり負け惜しみ?)
※ところで、この話を書いていると、「では人間は感性によってどのように対象を分別し、その特性を定位できるのか?」という問題が頭をよぎった。この件についても別に稿を改めてブログを書くつもりである。
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