<最近読んだ本>
「脳を司る『脳』」 毛内拡著 講談社ブルーバックス
「宇宙よりも海の方が未知の部分が大きい」という話はよく聞く。それは、宇宙は見える(というより見える部分しか原理的に研究できない)が、海の底は見えないということなのだそうだが、それよりも分からないのが「脳」で、「最後のフロンティア」という話もよく聞く。いまはMRIで脳を輪切りにしたりもできるが、本当の生きた脳をモノとして扱うのは難しいのだろう。昔は人体実験とか、マッド・サイエンスに近い話もあったようだが、昨今は動物愛護の観点から動物実験すら難しくなっているようで、「見える」部分はさらに縮小しているようだ。
私にとっては、音楽がどのように認識されるかを考える上で、脳がどのように認知を処理しているかは気になる話である。そういう興味から本書を読んだのだが、内容はかなりテクニカルで、一般向けの本と言いながら興味だけで読んで面白いようなものではない。
まず第1~2章は旧来の脳神経生理学の中心的対象であるニューロンの働きを解説している。ニューロンと言えばお馴染み「ニューロネットワーク」であり「コネクショニズム」だ。単一の情報(刺激)がシナプスにおいてニューロンからニューロンへ伝わり、その「多数決」で結論が出される。複雑な脳の働きも結局はそういう単純なアクションの総和である、というのがアイデアの中心で、これはまさに人間がコンピュータに行わせることのできる「計算」というプロセスであり、一番とっつきやすい方法でもある。将棋のソフトが1秒間に何千万手を読むとかいうのが話題になり、「ソフト同士で対戦して自分で学習する」というのが人間の認知過程を高速でなぞっているように喧伝されている。
しかし、その先ではそれとは別の機構がクローズアップされる。まずは第3章で出てくるのは最近流行の「神経修飾物質」による「広範囲調節系」の話である。様々な神経伝達物質がニューロンとニューロンの一対一対応でなく、細胞間質にばらまかれることによって、「気分」といったものが形成されるという考え方である。ここでは「ノルアドレナリン」「セロトニン」「ドーパミン」その他これまたお馴染みの名前が続出し、それらがニューロンの可塑性に影響を与えている。
そこから先は多分に仮説の世界になる。第4章では「水」が取り上げられる。脳細胞の間を流れる水が循環することによって、脳の活動によって生じた老廃物を洗い流し記憶を整理してくれるという「グリンファティック・システム」説が紹介される。第5章は脳が低周波レベルで電気を蓄える力についての話が出てくる。脳神経が互いに電気的な力を及ぼしあうことによって、神経の働きを増強し「頭の回転の速さ」のようなものに寄与している、ということらしい。
最後の第6章では、従来単なる脳神経を支える緩衝材、支持材と思われていたグリア(膠)細胞についての話が出る。特に巨大グリア細胞である「アストロサイト」は血管とシナプスを結び付ける重要な細胞で、ニューロンにエネルギーを供給する働きがある。アストロサイトはノルアドレナリンにより高度に活性化し、シナプスの可塑性を高めて広範囲の情報伝達を可能とする。これによって記憶力、学習力、意欲、閃きなどへ大きな影響を及ぼすことが判明している。すなわち、脳はニューロンによるデジタルな伝達をアナログな調節によって制御している。
これらの考察から、筆者は知性の鍵を解く秘密はアストロサイトにあるかもしれないという仮説を打ち出している。アストロサイトを活性化させるにはノルアドレナリンが大きな役割を果たしており、脳を健康に保つには刺激に対してアラートを発するノルアドレナリンの分泌を促進することが必要である、というのが筆者の予測である。そのためには意識に変化を与えるような事柄(筆者は「旅行」を挙げている)に触れることが大事である、というのが本書の「お勧め」である。
こういうテクニカルな本から何か教訓を得ることは難しいのだが、私流の「何でも音楽に結び付ける」読み方から言うと、これは「音楽は細切れの情報ではない」ということを表しているような気がする。音楽、特に西洋近代音楽は音という単位(私はこれを「個音」と呼んでいる)の構造体である。音楽を構成する部分、例えば「旋律」は「個音」の時間的配置なのだが、それは単なる音の順番を記憶することではない。私の青年時代は情報科学の芸術への応用の揺籃期で、音楽の一部分を切り取ってその順番の規則性を検討するような分析(「マルコフ連鎖」分析)が一世を風靡し、またその頃にあらゆる旋律を音の順番で分類しようというシリンガー・システム(いかにもアメリカ的発想である)などが考案された。しかし最近はそういう分析にはあまり発展性がないという印象になっているようである。
で、私に言わせれば、こういう「個々の情報を配列する」あるいは「個々の情報を個々に関係づける」やりかたは、音楽本来の認識方法ではない。音楽は一連の情報の集積をゲシュタルトという「個物」として取扱うところに妙味があり、一旦集積された個々の情報は全体性の中で各々の個性を喪失する。したがって、人間の認識は個々のニューロンにおける発火、あるいはその多数決によって決定されるのではなく、「広範囲調節系」の作用によって大局的な傾向が脳内に生じることによって起こるのであり、これは音楽の場合も同様であると考えられる。
現代音楽に興味のない方は読み飛ばしていただきたいが、私が著書でセリエリズム(音列主義)についてその実効性を批判的に述べているのは、人間は「個々の情報」を個別にとらえているわけではない、ということを言いたいためである。なぜ音列(セリー)がゲシュタルトを構成しにくいのか、その要因はこのような脳の情報処理方式にあるという気がする。「世界の七不思議」などに使用される「7」という数字は、人間が何の助けも借りずに記憶できる個数の最大値であるという説があるが、「旋律」(「音列」でなく)は人間が個々の音の順番を記憶するものではないため、いくらでも長い旋律を、場合によっては長大な交響曲全体を記憶することもできる。つまり、人間には「あるものをあるがままに」認識することは難しく、常に何らかの「認識のための支援」を必要とする、ということなのだ。
上記のように、シナプスで行われる1対1の情報伝達に対応するのが、コンピュータで行われる作業と感じるのだが、こういう作業をいくら続けてもゲシュタルトのような「何らかの個物」が発現することは難しいのではないだろうか。囲碁や将棋はすでにAIがプロ棋士を凌駕しているが、そういうAIが新しい定石のような個物を発明したかというと、AIにはその必然性も必要性もなく、もし新しい定石が生まれたとすればそれは人間がAIの指した手に発見するものであろうという気がする。(人間がAIに「定石を作れ」と指示することはできる。しかしAIがそのような作業を自分で考案することは考えにくい。)
音楽の場合も全く同様である。AIに、現に人間が作っているようなものを作らせることはいくらでもできるが、そういう必然性はAIの内部にはない。だからいまだ存在しないが人間に認識できるような様式をAIが発明することはありえないのだ。それは「脳」と「電脳」の構造がそもそも異なっているからである。「電脳」は膨大なメモリーと驚異的な計算速度のおかげで、人間の認知構造のような奇妙なものを作り出さずとも、単純明快な道を通って結論を出す。もちろん人間の認知構造をモデル化したような科学なり数学なりが今後発展することには期待したいが、その可能性と実効性についてはかなり疑問符が付くのではなかろうか。
たまたま今回書店で目に付いた本を読んでこういう感想を抱いたのだが、次回は(次々回になるかも)もう少し「音楽と脳」に特化した本を読んで、まだ漠然としている考えを少しでも明確にしたいと思っている。老化・ボケ防止のためにと思って、誰に読ませるともなくこんなブログを書き綴っているのだが、本当に脳を活性化するためにはアストロサイトがアラートを発するような刺激が必要ということらしい。今回ブログにコメントする機能を追加したので、もしこれを読んでいただける方がおられたら是非コメント欄にご批判ご鞭撻のお言葉をいただければ本望である。
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