「名曲・名演」は当ブログの守備範囲外だが、たまには書かずにはおられないこともある。ヴァイオリニスト對島佳祐さんとピアノの松本望さんがさる1月16日に杉並公会堂で催された演奏会で演奏されたラヴェルの遺作のヴァイオリンソナタがあまりに美しく、ブログで一言ご紹介させていただくことにした。たまたまFaceBook上でお付き合いのある對島さんから演奏会のご連絡をいただき、残念ながらコロナの現状下東京まで聴きに行くこともできず、後でYouTubeで聴かせていただいたのだが、これが実に素晴らしい。(リンク下記)
https://www.youtube.com/watch?v=XdllTHWTgdY
プロフィールにも書いているが、私は音楽と名のつくもので受け付けないものはまずなく、どんな音楽にも聴くべきポイント、ふさわしいシチュエーション、ふさわしい演奏があると思うのだが、そうは言っても好きな曲や好きな作曲家はもちろんある。その中でモーリス・ラヴェルは別格で、あの繊細極まりない楽譜を見ただけで心が顫えるのを抑えることができない。どうも世間では「ボレロ」の作曲家というイメージが定着しているようだが、あの曲はアイデアはすごいがそのあとは比較的単純作業で(とはいっても細部にいろいろ微調整はあるのだが)、晩年の創造力の減衰が見られるという意見もあながち無理ではないような気がする。
さてこの曲は(ご承知の方は読み飛ばしてください)1897年、作者が22歳の時に作曲され、初演もされたと思われるがその記録はなく、そのまま一般には忘れ去られ1975年に蘇演されたというものである。素人的にはこんな名曲をなぜ放棄するのかと思うが、ラヴェルぐらいのレベルになると、後年のスタイル(もう一つの、有名な方のヴァイオリンソナタとか)に比べるとあまりにロマンチックで他人の影響が透けて見えるとか、不満もあったのだろう。譜面ヅラも、一点の無駄もない他の作品に比べなんとなく未完成な気がするのは気のせいだろうか。1楽章のみの曲だが、どうも後続楽章も予定はしていたらしい。
作品は古典的なソナタ形式をとってはいるが、全体に対比で変化を付けるというよりは、一貫した抒情的な気分の中で感情の高まりと平静の波が繰り返される感じである。ドリア調の冒頭主題に平明な第二主題を配し、一貫してメロディを奏するヴァイオリンと伴奏音型が主体のピアノという単純な構成の中に得も言われぬ香気が感じられる(こういう印象表現には普段批判的なのだが、そうとしか言えないもどかしさがある)。確かにフォーレや、(多分)ショーソンなどの影響が感じられはするのだが、曲自体はどう見てもラヴェル其の人のものであることを疑うことはできない。
私は以前ブログで告白した通り演奏の良しあしを批評できるような感受性の持ち主ではないが、對島さんの音は常に流麗で清潔感があり、まさにラヴェルを演奏するのに最適のイメージである。例えばこの曲の展開部、136小節あたりから、全音音階を借用したハリウッドムービーさながらのフレーズがあるのだが、この録音では決して甘過ぎず、清冽なしかしノスタルジーを刺激される演奏になっている。このあたりコンセルヴァトワールで修行された對島さんならではの持ち味というべきだろうか。
他にもYouTubeにいろいろ演奏をアップしておられるので、是非他の曲も聴いていただきたいが、曲の難しさを微塵も感じさせないテクニック、気負わない演奏ぶりはさすがだと思う。ほかにもブゾーニのソナタなど面白いが難しい秘曲にもチャレンジしておられるのが素晴らしい。ラヴェルもできれば生で聴きたかったのだが、コロナの早期終息を祈るばかりである。
ところで蛇足だが、この曲の第一主題の後半に出てくる民謡風の主題(第16小節以降。その後繰り返し現れる)が、どういう訳かスクリャービンの第3ソナタの緩徐楽章の主題を連想させるメロディである。この時期スクリャービンはパリでこの曲を作曲し、演奏活動も行っていたので、あるいは何らかの関連があるのかもしれない。というより、当時の音楽シーンの一般的な「時代精神」だったのかもしれないが。
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