前回絶対音感に関して啓発されると感じる書籍をご紹介させていただいたが、今回(3)ではその方向性に立ちつつも、若干私独自の考え方を加えたものを記させていただく。教育現場とは全く無縁の人間として、何ら実証的な研究ではなく頭の中に浮かんだだけのアイデアなので、保証の限りでないことをお伝えしておかねばならない。
単音を聴いて直ちに音名(ピッチ・クラス)を言うことのできるような絶対音感はなくても、音がどの程度高いか低いかという感覚はもちろん誰にでもある。例えば物を叩いてその音の高さで硬さなどを見分けるような技術は昔から存在しただろう。人間の声で言えば、声の高さで男か女かが分かるとか、その人が怒っているか落ち込んでいるかが分かることは、社会的に必須の能力である。だから人間が、ある音がどの程度高いかを判定できる能力があることは自然な適応現象である。音楽においても、このような絶対的な音の高さが重要であるのは、オーケストラが様々な楽器で構成され、同じメロディをさまざまな音域の楽器が演奏することで音楽が構成されることを見ても理解できる。すなわち、音楽において絶対音高は多様性を確保するために使用されていると言える。このような音高を判断できる能力を、いわゆる絶対音感と区別して今仮に「絶対音高感」と呼ぶことにしたい。
念のために言っておくと、絶対音高感は相対音感とは別物である。相対音感は複数の音の関係(すなわち音程)がどういうクオリアを生ずるかを感知するものであり、絶対音高感はそういう比較の意識なしに高さを認識するものである。目の前に1本の棒があって、その長さが10cmでも10mでもなく1m前後であろうというのは、そこに1cmや10mの棒を持ってきて比較する必要のない反射的な知覚である。音楽でも曲の冒頭から演奏される低音がチェロやベースの音であるのは、(音色の違いもあるが)バイオリンの音の高さを想起するまでもなく明白だ。いわゆる絶対音感は、ある意味このような絶対音高感が人工的な音高体系を認識できるまでに、極端に洗練された結果であるということが言える。
さて、絶対音高感がどの程度正確に、かつ意識的に把握できるかである。例えば人の声であればそれが誰の声かなどが分かればいい。普段の声より高いのは本人がいら立っていることを示すかもしれないが、平均より何ヘルツ高いかまで認識する必要はない。すなわち、絶対音高感は「それが何であるか」「どういう情況にあるか」というような、音を発する対象を指示する機能がある。これは一種の記号作用と言うべきものであり、先に述べたように進化において生存のために存在する能力である。上記の例で言えば、同じような音色でも「この高い音はバイオリン」「この低い音はチェロ」というように、発音体の多様性を認識させ、それぞれの線的関係を明確にすることが音楽に豊かさを与えている。
しかし楽器はそれぞれいろいろな音程の音を演奏することによってメロディを形作るのであって、メロディを構成するそれぞれの音が「絶対的」に把握されているわけではない。このことはメロディを「移調」してもその同一性を失わないという認識方法が可能であることによって明確になる。このことは、分かり切った話ながら「メロディ」の本質が音同志の関係性、すなわち音程(相対音高)であることを意味し、前回ご紹介した「絶対音感神話」において何度も繰り返し強調されている事項である。
[※古典的なゲシュタルト心理学(エーレンフェルスとかヴェルトハイマーとか)で、この「移調」という現象が、個々の音がメロディというゲシュタルトを形作ることの証左に挙げられているのは私としては若干違和感がある。「移調」したメロディは絶対音高こそ別物でも元の音の関係性を保っており、メロディの本質が音程(相対音高)であることを考えればそもそも「同一のもの」であって、ゲシュタルト化以前の問題ではないかと思うのだが、専門家ではないのでそれ以上主張するつもりはない。]
クラシック歌曲の楽譜は「高声用」とか「中声用」とか、それぞれ移調されたものが売られているが、そのように絶対音高を変更しても曲そのものはもちろん同じ曲であると考えられているのは、移調によって曲の印象が本質的に変わるとまでは考えられていない証拠である(女声用の歌を男性が歌うことすらある)。これに反して、メロディの一部の音の関係を変更することはもちろんメロディを改変することであって、曲の本質にかかわるということになっている。
つまり、絶対音高の認識が「発音体の種類あるいは状態」を特定するために働くのに対し、相対音高の認識は「発音体の行動、意図」を示すというような役割分担があるのではないか、というのが私の仮説である。上記のように絶対音高を認識することは生物として極めて基本的な能力である。「絶対音感神話」には、相対音高より絶対音高の認識が動物にとって本質的であるという研究が示されている。しかし音にもっといろいろな役割を果たさせるためには相対音高(音程)の認識が必須である。現に言語の発生という進化上きわめて重要なイベントにおいても、相対音高はアクセントとかイントネーションとか、ある程度の重要性を担っていて、これは声をコミュニケーションの道具とするほかの生物(鳥とか)についても共通ではないかと思われる。この点を「絶対音感神話」では、動物の基本的な能力である絶対音高感はあらゆる人間に共通であるが、相対音感という若干後天的なしかしより明確な認識方法が身に付いた後では、絶対音(高)感はそれ以上発達することはなく、その結果成人が自然に絶対音感を身に付けることはない、という考え方が示されている。
絶対音高の把握がより原始的な、無意識な作業であり、相対音高の把握が「声」をより分析的に使用する方法であるということは、相対音高を把握するより特定の絶対音高の把握を意識的に強化するほうがずっと難しいことを意味している。(現に私は意識的に把握できる自信は全くない。) だからこそ、人間が文化活動のために音声を利用しようとしたときに、柔軟性・便宜性が高かったのが相対音高の操作だった、ということが言えよう。なお「言語」もやはり高度な精神活動であり、上記の通り相対音高を利用する部分も若干あるのだが、言語は「人間の声」において使いやすい「音色型」が先行して発達したため、必ずしも相対音高を利用する必要がなく、相対音高の利用は「言語でないもの=音楽」において高度に発達した、というのが私の考え方である。
このように、音楽において相対音高が本格的に使われるようになると、言語におけるような曖昧な把握では済まず、「正確に把握」されることが必要になる。この相対音高の正確な把握は「同時性」によって達成される。以下詳しくは拙著を参照いただきたいが、音楽という構築物に特徴的な現象として「同時性」がある。音楽は複数の音なり声部なりを「同時」に鳴るものとして認識する(すなわち「ハモる」)ことが大きなポイントである(単音のメロディであっても認知の構造は同じである)。この「ハモり方」(協和度)すなわち相対音高の物理的な基礎に基づいた評価の結果によってさまざまな音程が成立し、音階をはじめとする音楽の手法が開発されてきた、ということが言えると思うのだが、これに対して絶対音高の方は以上のような相対音高による構築の歴史に対して明らかに背後に退いている。(音階の成立に関しては言いたいことが山ほどあるので、また稿を改めたい。)
すなわち、相対音高は構造化されており正確に把握されるが、絶対音高はより動物的生理の底辺で把握され、その把握形態は本質としては曖昧である、ということなのだ。現代では絶対音高はA=440など数値的指標で示されるが、これは全く恣意的な基準であってバロック時代はもっと低かったとか、そもそもその基準自体が曖昧であったことはよく知られており、なんら物理的な根拠があるわけではない。だから絶対音感という能力は純然たる近代人の発明である。しかし今まで述べてきたように人間は可聴な音域の中で高い音と低い音を識別できる能力(絶対音高感)があることは間違いない。それがダニエル・レヴィティンの言うように、あらゆる人間に厳密な絶対音感の素質があるということが言えるのであれば、どのような意味においてであるかは考える必要があるだろう。
人間にはパターンに慣れるという性質があって、例えば階段を上っているときに1段だけ高さの違う段があるとそこで躓いたりするものである。それは体が1段の高さを憶えたということだ。バイオリンを習い始めると弾くときに左手で押さえる場所を必死に見ながら弾くものだが、慣れてくるともちろん指の押さえる場所を一々見ているような余裕はないものだ。(恥ずかしながら私は、ピアノの場合はいまだに目を閉じて弾く自信はない。) そういう過程を考えると、音を聴いて絶対音高を答えられるというのは、そういう訓練をずっと行っていたため絶対音高が肉体的(聴覚的)に「身についた」ということに他ならない。そういう芸当はある程度遺伝的「才能」もあるにはせよ、むしろ同じ音を毎日聞くこと(すなわち音楽の訓練をすること)の賜物である。かつそれは一定の臨界期があり、その「年齢窓」内に訓練を受けなければ身に付かないものであるらしい。
その延長線上でレヴィティン流の実験について言えば、「絶対音楽神話」にもある通り自分が過去に何度も歌ったことがある歌を歌うという行為については、その人は自分が一番歌いやすい音程で歌う傾向が身に付いているだろうから、同じ高さで歌うのは当然だという気がする。そういう人に単音を聴かせて音名を答えられるように訓練するためには、かなりの時間を要するだろう。結論としては、絶対音高と相対音高の認知機構には隔たりがあり、文化行動としての音楽を作り上げているのは相対音感だが、人間に原初的に存在する(曖昧な)絶対音高感も音楽を豊かにするのに貢献している、というものである。但し絶対音高感の方を訓練して、音名を答えられるような「絶対音感」に仕立て上げるのは、どう考えても無駄な努力であると感じられる。
全く同じことが「リズム」と「テンポ」についても言える。「テンポ」は絶対音感と同様相対的な関係性から独立した時間の把握であるが、対する「リズム」は「拍」という規則的な時間把握に対する関係性であって、これも相対音高同様に「同時性」に依拠しているものである。「テンポ」の把握については、メトロノームという発明があって絶対音高よりは若干早く意識されるようになったわけだが、それでも普通は「アレグロ」「アダージオ」といったあいまいな表記によって示され、奏者や指揮者によって大幅に異なることも多い。「絶対音感」の教育がある一方で「絶対テンポ感」の教育がないのは不思議な現象だ。
しかし、これもやはり人間の肉体的な「慣れ」によって把握されるものであり、古人は自分が慣れ親しんだ「アレグロ」というテンポによって作曲を行っているのであって、その速さはおそらく当時の人間にとっては「平均的なテンポ」という時代精神」であったのだろうと思う。私にとって「絶対テンポ感」を教えてくれるのは「軍艦マーチ」であって、この曲は毎分60小節なので1秒という時間を計るのにとても好都合である。この曲が私のような昭和人間にとって時代精神であるのは、毎日パチンコ屋から流れているこの曲を聴いていたからに他ならない。ウィーン・フィルが指揮者なしでもウィンナ・ワルツを演奏できるとかも、これと同様の訓練の結果である。「リズム」はこれと全く異なり、テンポが変化してもリズムは変わらないという意識が存在する。これはまさに「移調してもメロディは変わらない」というのと同じ構造である。
このように、音高と時間には「絶対的」な把握方法と「相対的」な把握方法があるのだが、それ以外の音楽要素では意外に「相対的」な把握方法が可能であるものが存在しないのが注目される。「音楽の三要素=メロディ・リズム・ハーモニー」というのがまさにその状況を表しており、これが先程来述べている「同時性」に関係するのだが、話が長くなるのでこれも稿を改めて検討したい(これについても拙著をご参照いただければ幸いです)。
このあたりを結論にして本項を終わりたいところだが、実は本項を始めたそもそものきっかけの私の「絶対音感まがい」の問題が少しも解決していない。最後まで一気に書いてしまいたいのだが、あまりにも長くなるので、誠に恐縮ながら次回を最終回(4)として残りを記載することにする。
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