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[京都」の誕生

<最近読んだ本>

 

「『京都』の誕生-武士が作った戦乱の都」 桃崎有一郎著 文春新書

 

前回音楽の話題を少々深堀りしたので、少し音楽から離れて今回は純粋に歴史の話題(プラスほんの少し音楽の話題)。文春と言えば最近は「文春砲」ばかりがクローズアップされ、私としてはどうも興味の対象から遠いのだが、この本はもちろんその手のスキャンダラスなテーマとは無縁で、歴史を地道に見直すというものである。とは言え著者は古代中世史の広範な見直しを提唱しており、結構気合が入っているところは「文春」的かも知れない。

 

さて、私は京都に生まれ、国内外を転々とした後、数年前に親の実家に帰ってきた。そのため実のところ「京都」を見る目は極めてヨソモノ的である(自分では「観光客地元民」と称している)。私の住んでいる岡崎という土地も、観光地は無数にありコロナの巣籠期にも散策には事欠かないのだが、それで地元のことが分かっているかというときわめて心もとない。この本はそういう問題意識から手に取ったのだが、京都を作った「平安時代」という時代を通観するうえで便利であり、独自の史観もあってなかなか面白い本であるので、以下内容をご紹介したい。

 

京都の誕生というと、昔「鳴くよ(794)ウグイス平安京」という文句で覚えた年号が頭に浮かぶが、この本のテーマを一口で言うと「平安京は京都ではない」ということに尽きる。そもそも平安京のプランは桓武天皇の頭の中の妄想としてのみ存在するもので、それに伴い地割だけは行われたものの、その実体はほとんどなかった。例えば中国の場合都城は頑丈な城壁(羅城)に囲まれ、そこへの出入りを取り締まるための門が存在するのだが、平安京の羅城門は立派な門(と両脇に形だけの羅城)だけが孤立して存在したようで、防御施設としての意味は全くない。当然政権にも維持しようという熱意は全くなく、平安中期以降放置され芥川龍之介の小説の舞台になってしまう。

 

平安京は東側の左京と西側の右京に分かれ、中心の南北に幅80メートルの朱雀大路が通り、その北端に大内裏が置かれているのだが、その大内裏は現在の千本丸太町付近に位置し、現在の京都市から言うとかなり西に寄っている。そもそも右京は低湿で当初からほとんど人が住まず、目立った施設は保元の乱以降反逆者の首が掛けられた「獄門」のある「西の獄」(「円町」という地名にその跡が残る)くらいであったらしい。

 

いま私の住んでいる、鴨川の東岸から東山山麓までの地域は「左京区」なのだが、それは昔の左京ではない。平安京は鴨川の西側「東京極大路」で終わっており、その先は「京外」だった。このように今の京都は鴨川を越えて広がっているのだが、その背景に何があったのだろうかというのが、この本の眼目である。

 

この動きの先頭を切ったのが白河院という人である。この人は天皇の代替わりのはざまで摂関家との縁が薄れ、上皇として「治天」という独裁権力を獲得するのだが、その権力を誇示するための施設を作るのに平安京の区域には土地がない。そのため白河院は鴨川を越えた白川の流域(すなわち現在の岡崎地区)に、法勝寺という高さ80メートルの九重の塔を持つ巨大寺院や、白河北殿・白河南殿という広大な別荘を造営する(それ故にこの人は白河の名をもって呼ばれる)。土地収用の問題だけでなく、政教分離を目指してスタートした平安京の中には、東寺以外の寺院を建設することは許されなかった。

 

この白河院と結託したのが平氏という武士勢力である。そもそもこの巨大都市は、その当初からきわめて治安が悪かった。治安維持組織であるはずの三衛府(近衛府・衛門府・兵衛府)は基本的に文民の官吏で、治安維持に必要な「穢れ」には手を染めず、そのために実際の都市の警備は「舎人」や、後には令外官である「検非違使」に委ねられたが、それらの組織は腐敗したり有名無実化したりして機能しなかった。一方地方では荘園の防衛組織としての武士が発生し、都でも武士が治安維持を担うようになる。源氏と平氏がその主要な勢力だが、源氏が各地に土着化して身内争いを繰り返すのに対し、平氏は政権の中央と密接な関係を構築する。

 

独裁権力を持つ者はえてして「朕は国家である」とか「望月の欠けたることもなしと思へば」とか、自らの権力を誇るものだと思いがちだが、これらの言葉は実際には権力を行使できない悩みや、健康などの不安にさいなまれる立場で発せられたものである。「加茂の水、双六の賽、山法師」(天下三不如意)という白河院の言葉も同様で、白河院が自らの権力を誇示した言葉のようだが、これは白河院が仏教の皮をかぶった暴力団である山法師(僧兵)に徹底的に悩まされ、それと対決することを決意した文句であって、そのための用心棒として雇われたのが平氏であったということができる。

 

白河院が自分に仕えた祇園女御を平忠盛に下賜したという平家物語の話があるが、白河地区から祇園女御の祇園を経て、平氏が新たに開発した六波羅地区(これは埋葬の地である「鳥辺野」に隣接しており、元は「髑髏原」であったという説もある)に至るルートは、鴨川の東の開発の過程を如実に示すものである。さらに保元・平治の乱を経て次代の権力者となった後白河院も平氏との結託を強め、六波羅の南にこれまた巨大な法住寺殿を作るが、次は平氏がその西側(京都駅付近)に西八条殿を造営するという、一種の連鎖ゲームとして京都の東や南は開発されることになった。

 

本書が「京都の誕生」というのは、まさにこのような院政とそれを支える平氏勢力によって、平安京とは全く異なる「京都」が生まれたということであり、著者は「源氏は京都を利用したが、平氏は(院政とタイアップして)京都を建設した」とこの状況を総括している。

 

以上、簡単にこの本のポイントだけ要約してきたが、ではこのような動きがどういう条件の下で発生したのか考えるのは興味のあることである。中国の都市の場合、堅牢な城壁に囲まれているのを見てわかる通り、緻密な都市計画が強力な権力により実行に移され、当初想定された機能を果たすために維持される。それを改変するのは異民族の侵入のような外部による撹乱である。しかし平安京の都市計画は中途半端なものであり、桓武天皇の意図に拘わらずアメーバのように変貌を遂げている。そもそも天智・天武や桓武などの天皇が日本に移植しようとした律令制自体が、日本の場合どんどん変質していく。「治天」などという存在は多分中国の本来の制度ではありえないものだろう。武士というような本来のシステム外の勢力が実権を握るのも、律令や儒学を自己流に解釈できる日本ならではだ。

 

そういうフレキシブルな体制は何によって可能だったかというと、それはやはり島国という条件から外敵の侵入のリスクが低かったということではないか(それ故「暴力装置」の必要性も重視されなかったのだ)。その結果日本では複数の政治勢力が内部抗争を繰り返すような「余裕」が生まれた、と言うことができると思うのだが、そういう気質は国際化が進み外部からの撹乱が常態化した現代でも「電化製品のガラパゴス化」のような形で残っている。その代わり初めにがっちりしたシステムを作ってそれを厳格に運用し、それが対応できなくなったときはご破算にして新たなシステムを一から組みなおす、というような根本的な改革は苦手であるように思われる。

 

さて、本ブログの話題は「音楽」に特化することを目指しているのだが、歴史書を読んでも科学書を読んでも、つい音楽に結び付けるのが私の悪い癖である。音楽の場合誰かがシステムを発明し他人に強制するわけではないが、音楽史における古典派という時代はまさに音楽形式がごく少数に絞られ、そのルールに従わないものが評価されないような時代だということができる。学生は「和声法」「対位法」を学び楽式論ではソナタ形式や三部形式が講じられるような時代であったのだが、このような堅牢なシステムは若干の撹乱(民族音楽などの導入)があってもそれをシステム内に取り込んで変質させてしまう力がある。

 

これから脱却するために、例えば現代音楽においては音列技法のような手段で既存のシステムを破壊し新たなシステムを構築することが試みられるのだが、残念ながら桓武天皇の平安京のように理念先行で、あまり現実に即した解決法とは言い難い。新しい音楽はむしろ京都が鴨川を越えてアメーバ的に広がったように、ポップスや民族音楽といったジャンルの垣根を越えてなし崩し的に成立するもののように思われるし、そのためには院政のようなカリスマが時代を引っ張ることも必要で、また武士勢力のような時代の新しい担い手が聴衆あるいは演奏者となって支えていくことも必要だ。とは言えこのアナロジーは未来の音楽の姿を予言してはくれないが、いつの時代も変革が知らないうちに我々の傍に来ていることに注意を絶やさない必要があるだろう。

 

ところで、この岡崎地区のその後の推移を簡単に見ると、白河院の法勝寺をはじめとする巨大寺院群(「六勝寺」)が鎌倉時代に没落して以来あたりは元の野原に戻り、東国への出口である「粟田口」付近だけが室町以降職人の町として栄えたようだ。その後徳川時代は今の平安神宮から京大に至る区域はいくつかの寺社の存在以外はおおむね地方各藩の京屋敷で、明治維新とともにそれらが接収されて博覧会の会場となり、今の岡崎公園が成立した、という流れのようである。

 

しかしながら、九百年近く前の保元元年(1156)二条通を川端方面から崇徳院の籠る白河殿方面に源義朝率いる200騎が疾走したとか、目と鼻の先には平忠盛が白河院のために作った得長寿院(三十三間堂の前身)が聳えていたとか想像するのはなかなかスリリングである。先のブログでも書いた通り「臨場感」というものは単に音が聞こえてくるというのとはまた別の体験であるのだが、歴史の臨場感も身近に感じられるのはやはり時間を越えて「場所を共有している」という感覚のなせる業に違いない。延期されたとはいえ文化庁の移転の予定されている京都が、これからどのような場所を創造し、どのような音楽を生み出していくのか、期待していきたいものである。