<最近読んだ本>
「西洋音楽の正体-調と和声の不思議を探る」 伊藤友計著 講談社選書メチエ
昨年「ラモーの音楽理論」を上梓した著者の新作である。(前著に関する記事をFaceBookのタイムラインに上げていたものを、ブログの方にも転載したので、本書を未読の方は是非本ブログをお読みいただく前にご覧いただきたい。もちろん拙ブログよりも原典を読んでいただくのが一番の近道であることは間違いない。)
著者はラモーの和声学の研究者であって、その時代の和声学の考え方の推移に関する記述は詳しくてなかなか勉強になる。私の場合素人だから何を言っても許されるなどとつい開き直りがちになるのだが、やはりプロの書いたきちんとした本を読むと、勉強しないといけないと思う。自分の問題意識に深く重なっている場合はとりわけそうである。
私の問題意識というのはもちろん拙著に繰り返し記載しているように、いま「音楽」と言って普通にイメージする「西洋近代音楽」というものの本質が何でありどのようにして成立したのか、ということである。私流の定義ではそれは音響類型としての「和声」を継起的に組み合わせ、その組み合わせをこれまた認識しやすいように類型化し整理することで特徴づけられる音楽である。(平易な言葉で言えば「コード進行のある音楽」である。)またそのような様式を最終的に理論化したのが、先に出てきたラモーであると言える。
著者はこのような音楽の成立を画期する事件として、クラウディオ・モンテヴェルディの「第二作法」宣言を挙げている。これはルネサンス様式である「第一作法」に対してバロック様式の創造と言うべきものである。著者はモンテヴェルディがある作品で「予備なしの七度」を使用して旧派の音楽家たちと大論争になったことが、この音楽上の革命の契機になったことを記述している。「属七(七度音を付加した属和音)の七度音には予備がいらない」ことは和声法の初心者(私を含め)がすぐに習うことである。ギターを初めて手に取った者が、とにかくコードをジャカジャカ鳴らす練習をする際に、まずハ長調の三種の和音(楽理で言うところのTSD)を習うのだが、主和音(T)の「C」、下属和音(S)の「F」に対して、属和音(D)はなぜか「G7」だということになっている。しかしもちろんルネサンス時代の常識はそうではなく、七度音は必ず事前に音を聴かせておくという「予備」を必要とした。
これは本書の記載にもある通り、音楽が、前代に協和音程としての地位を確立した五度や三度で作られるものであり、七度音のような「不協和な音」(その意味は根音ソに対してオクターブを調整すれば2度の触れ合いの関係になることや、三度音シに対して七度音が減五度という「音楽上の悪魔」Diabolus in Musicaになること)は、先に協和度の高い状況で鳴っている(予備された)ものしか認められなかった。もちろん五度や三度も初めから協和音であったわけではなく、長い年月をかけて協和音と認められてきたのだが、ここでの七度音の使用は協和音程が認められていく過去の過程の繰り返しではなく、和声(Harmonia)という語義の見直しにかかわっている。Harmoniaの本義は「協和・調和」だが、ここでモンテヴェルディは「協和しない」音もある目的のためには必要であると主張することによって、「和声」が常に協和音でなければならないという当時の常識にノーを突き付けている。
いずれにせよこれを機として、以後音楽の世界は状況が許せば不協和音を使用することをためらわなくなった。これで思い出すのは、ベートーヴェンがバリトンに「このような音でなく」と歌わせる直前にオーケストラに要求した和音が、ニ短調の主和音に減七度の和音を重ねるという強烈な不協和音だったことである。それはそのテキストの表現に応えるためにそういう音が使用されているということだ。ここで、音楽とは調和に満ちた美しいものであるという古典的発想から、表現のためには手段を択ばないものであるという現代の発想に至る一つの転換がなされたということができる。
本書にはさらに、このような七度音の使用が強制進行の義務付けを通じて「カデンツ」の存在を強化し、和声の組み合わせパターンの定型を作り出したことが記述されている。特に「カデンツ」の誕生がノートルダム楽派に遡る「クラウスラ」(clausula本書では教会式に「クラウズラ」と表記されている)の成立と関連付けられるという本書の指摘は興味深く、西洋音楽における強固な分節性の原型がここに存在すると著者は見ているようである。そのような分節が「P→i→P原理」(P=完全。i=不完全)によって支配され、「不完全⇒完全」あるいは「不協和⇒解決」という図式が成立すると、ここにカデンツという実体が生じる。
そこから著者は、音楽史の流れをたどりながら、音階、調性、和声などが形成されていく姿を叙述している。但し、その記述は各時代の音楽理論の紹介を通じてそれらの観念が成立していった過程を描写するものであるので、事態を進行させる原動力が何なのかはその背後を読み取らなければならないのが、やや本書を難しくしているような気がする。その点については各自本書を読んで考えるしかないと思うのだが、私独自の解釈によってその流れを補足して考えると、本書に記された過程は以下のように要約できると私は考えている。(あくまでも「私の考え」であって著者の見解とは異なるので、ご注意いただきたい。)
まず、音楽を「個としての部分の構築」としてとらえることは自然な認識方法であり、特に文学的テキストがあればテキストの区切りがそのような部分として把握されることは当然である。部分の始まりと終わりにはそれ特有のマーカーが置かれるが、本書に出てきたような、協和度による「P-i-P原理」がそのようなマーカーとして利用されるのは自然な成り行きである。中世音楽に見るような、三度が五度・同音・オクターブなどに「解決」する様式はそのような段階を示している。このようなテクニックは古典の様式でも非和声音が和声音に「解決」するような形で、全く同様に機能している。(冒頭の「属七」の問題もまさにこれを示すものである。)
しかしながら、今日カデンツと言えば我々には「D→T」というような「和声進行」がマーカーとなるもの、という意識がある。この事情を考えるためには、まず和声というものの成立を考えることが前提である。ルネサンスにおいて「各声部の音程」が「和声」という抽象的な実体を形成するという意識が芽生え、かつそれが「三和音」という形態に収斂して整理され、容易に認識できるものとなる。このような運用が一般化して行き、バロックに至ると逆に「和声」の方が音楽を構築するための論理となる。そうなれば、実際に存在する「声部」の音は単に和声の成分を代表するものとなるので、本書の記述にあるように一部の音が欠けていても、「転回」されていても、和声としては同一であるという意識が成立するのは当然だ。これがラモーの和声論の到達した段階であり、上記の「属七」問題はこのような認識が成立したことを示す一つの画期であるということができる。(このような形式の行き着く先が、コードネーム付メロディーのみからなるポップスの楽譜である。)
本書の内容とはやや外れるが、そのような「和声」が成立し、かつ和声の組合せ(「和声進行」)が定型を形成するようになることについては、西洋音楽の音組織の成り立ちを考える必要がある。西洋初期の音組織(正格の教会旋法)はフィナリス(終止音)と五度上のドミナント(支配音)の組み合わせで成立していて、日本民謡のような、四度の枠組みが重視される音組織との違いが顕著である。このように五度の枠組みが存在することは、それに三度音を付加した三和音が成立する余地があること、また「D→T」のような五度の下降が明快な認識を与えるものとして分節のマーカーとなることを意味する。(非常に大雑把な議論であり、細かい経緯を無視しているとのご批判もあると思うが、ご容赦いただきたい。)
さらにこのカデンツという分節に特性を与えているのが特殊な半音としての「導音」である。本書の記述に従って時代を遡ると、歴史的には「音楽上の悪魔」を避ける必要性からmusica fictaと呼ばれる半音の調整が行われ、そのような操作が次第に「教会旋法」を実質的に「長音階・短音階」に変質させる(16世紀のグラレアーヌスによる「イオニア」「エオリア」の追加は最終的な追認)。本書にはこのような「半音」の位置が音階を決定し、「不協和→協和」の組み合わせにおいて半音を使用することが推奨されたという記述があるが、これは半音を使用することが声部としての「滑らかさ」を増強するという発想によると思われる。特に、上記の「D→T」という和声連結において、属音の「長三度」が主音と半音の関係(すなわち導音)となるという事実は、この連結がカデンツの典型的なマーカーとなることを運命づけたと考えられる。
私としては、このようなカデンツの定型が確立したことが「調性」という概念の成立にふさわしいと考えるのだが、本書には「調性」の概念がブライアン・ハイアーを引用して8つも挙げられている。このような概念の混乱は決して好ましいとは思えず、調性とか無調とかいう言葉が安易かつ曖昧に使用される根源となっている。本書にも挙げられている「参照先となる主音を目指して構築される」という表現など最たるものである。ある音が主音であると言うためには、その音で始まる/終わるとか、その音中心に曲が構成されるとかの問題ではなく、その音を背景とする和声の構築があり、そこが旋法性との違いであるというのが私の考え方なのだが、本書の論旨が「属七」を真正の和声として取り扱うことが西洋(近代)音楽の正体であるとの主張であることを考えると、これは著者の考え方とも近いのかもしれないと思っている。(本書の読み込み不足かもしれないので、断言は避ける。)
さらに本書には、最後に「音楽と自然」という章が設けられており、これは私の問題意識に非常に近い、特に興味深い章である。特にここに掲載されたレヴィ・ストロースの言葉は非常に含蓄があり、じっくり味わう価値がある。私は最近「音楽は音の数学」式の表現に嫌気がさしていることもあって、自然と人工との関係を考えるためには人間の「認知の構造」が出発点になることが必要であるという思いを強くしているのだが、これについては関係図書を読んでいるところでもあり、別途稿を改めて論じることとしたい。
古稀間近なこの歳になってこのようなことを考えていると、過去の勉強不足を痛感する。ネットを見ていると在野でこの種の研究をしている方のレベルも高いので、アマチュアであることは何の言い訳にもならない。改めてここで問題になっているような中世・ルネサンスの音楽(さらには各種の民族音楽)を勉強し直さなくてはと思うのだが、そのつもりで聴きなおしてみると「古楽=古拙」というような考えが当たらないことを実感する。昔の作曲家はその時代の様式内で出来る限りの芸術の高みを目指したのであって、それに単なる「癒し」を求めて聴き流すような態度は(結果的に「癒される」ことがあるとしても)適当ではない、という思いを強くする。私はベートーヴェンやモーツァルトが「最高の音楽家」であるという言明には一定の根拠があると考えている者だが、それにもかかわらず音楽の世界は広大で、無限の資源をその中に蔵しており、探求すればするほど嵌ってしまうブラックホールのようなものであると思う。本ブログは本書の解説にも宣伝にもなっていないのは申し訳ないところだが、これを読んで常々古典派やロマン派の音楽ばかり聴いている人が「いろいろな音楽に触れてみたい」という契機となるのであれば幸いである。
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