当ブログにおいては、「政治」「宗教」「業務」は話題から追放しているのであるが、政府首脳の国会答弁などを見ていると、政治家は数フレーズで勤まるような印象を持たざるを得ない。
「現在鋭意検討中」―『蕎麦屋の出前』?
「緊張感を持って注視している」―『しばらく様子を見ましょう(水戸黄門)』?
「個別の(あるいは『仮定の』)問題にはお答えできない」―それが一番聞きたいが…
「当局捜査中なので答弁は差し控える」―『語るに落ちるとまずい』?
などといったフレーズを聞いていると、誰しも「今までなにも検討してこなかったのか?」「いつまで注視を続けるのか?」「いろいろな仮定の下に検討するのが仕事ではないのか?」などといったツッコミは当然湧いて出てくるのだが、実際自分が名指しされて、かつ何の準備もなければああいう「定型」的な答弁はさぞ便利だろうな~と思うこともまた事実である。
で、本ブログは「音楽ブログ」なので、まずは世の中の不合理への怒りとかそういうものは脇に置いて、今回は「定型」の効用についてである。私は現在ボケ防止を兼ねて契約書のチェックを仕事にしているのだが、世の中の契約書というものは基本的に定型文の組み合わせで出来ている。(このようなものを業界用語で「ボイラープレート」と称する。)
法律文書で定型文を使用する最大の理由は、定型であることによってその解釈が確立されており、問題が生じたときに過去の判例等を参照することによって、紛争が水掛け論になることを防げるということである。すなわち、定型は「認識を明確にし、関係者間での解釈を明確にする」という効用がある。一般言語においても「ラング」が存在して、それによってコミュニケーションが成立するのだが、この場合は個人によりあるいは状況によってその意味が変化し、そのため辞書には単語の意味がいくつも記載されることになる。法律家が特殊な法律用語を使用することについて、一般人に分かりにくいという批判がよくあるのだが、一つの言葉の意味を限定したいという意識からはやむを得ない点もある。難解な専門書や哲学書なども、言葉に特殊な意味を持たせたいという心理が表れているものである。こういうものはたまに原典を見ると意外と日常語が使用してあって、翻訳書よりむしろ話がよくわかるケースもままあるものだ。
それで、今回取り上げたいのは音楽における「定型」の効用である。例えば古典的な和声法においては、フレーズの終わりがD-T(Ⅴ-Ⅰ)という和声連結になっていて、これが「カデンツ」と称する一つの定型になっている。元のラテン語の意味は<落ちる>であって、漢語の「段<落>」とか日本語の「<落ち>着く」というような言葉と共通しているのは興味深いが、これはまさに「重力の法則に従うような自然な動き」であると感じられていることを意味するだろう。「シ→ド」のような導音進行や、不協和音が協和音に移行するのを「解決」と称するのも、このような「自然な動き」と見なされているイメージがある。
そのようなイメージのためか、古来こういうカデンツを物理法則類似のものとしてとらえようという考え方が存在した。「鼓動説」「エネルゲティーク」「力動説」といった、音楽を数理によって分析したいという発想の理論が19世紀末から20世紀初頭にかけて多数出現したという歴史があるが、こういう「音自体が他の音との関係からある方向に動く潜在性を有する」という発想で音楽形式を考えることには、かなり無理があるような気がする。
私は「音律はピタゴラスが発明した」的な、あらゆる音楽現象を物理学によって説明しようとする努力には限界があり、こういう「自然な動き」は実は人間の認知機構が作った「定型」に過ぎないと考えている。導音進行が「自然」なのは、それが「狭い音程」でありかつD→Tという和声進行の定型に調和するからであり、D→Tが「自然」なのは、それが五度という極めて認識しやすい関係にあるからである。我々はバロックや古典派の音楽を聴いてそういう「認識しやすい」定型に慣れ親しんでいるがために、それが「自然」であるという錯覚を抱いてしまう。そのためそのような定型を説明する原理もまたさまざまに研究されることになったわけだが、実際のところそれは物理学ではなく認知心理学に近い分野の問題であって、西洋近代音楽になじんだ我々にとって「定型」となっているのに過ぎないことを、再度確認すべきだろう。
私に言わせれば、D→Tという完全終止は最も明確に認識できる組み合わせであるためフレーズの区切りの定型として使用されるようになったものであり、それを中心として半終止や偽終止といった類似の定型がそれとの関係で存在するのが古典的な和声法である。こういう「定型」はそれが存在することによって分節性、全体の構築のありかたを明確にする。法律文書の定型と同様に、これらは「認識の明確さを保証する」ということに奉仕しているのだが、たまに契約書に定型的でない表現があれば、チェックする人間としてはそこに何らかの意図が存在するのではないかと疑うことになるように、音楽においても定型を逸脱するようなパッセージがあれば、我々はそこに注意を惹かれて興味を維持することになる。
こういう定型は、西洋近代音楽にはあらゆるレベルで様々な形態が存在し、それを理解することがすなわち音楽を聴くということに他ならないのだが、それに類する定型は中世音楽においても現代音楽においても、また各種民族音楽においても存在し、それを把握できるかがそのような音楽を理解し楽しむことであると言える。カデンツというものを重力になぞらえるとすれば、「物が地上に落ちる」という古典的パラダイムのみを理解している人間は、「物と地球の間に引力が働く」というニュートン的パラダイムを理解することは難しいかもしれない。音楽を聴くということもそういうことであることを、我々は念頭に置いておく必要がある。
さて、政治家の駆使する各種「定型」は、我々が政策をよりよく認識するためのツールとなっているのだろうか? むしろそれは、われわれが「政治家という人種」をよりよく認識するためにのみ存在するような気がしてならないのだが、こういうコロナの時期というものはあらゆる社会の制度に光を当てる機会であるということを、各種の「定型」が耳にタコになることを通じて感じさせられる。
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