前回ブログを「モーツァルトは白人文化か?」というところで中断したのだが、これを考えるうえでモーツァルトをひとつの典型とする西洋音楽の「古典派」というものについて再考したいと思う。私は拙著で「古典派」の意味を疎かにしないことの重要性を強調しているのだが、ここでもそれについて述べたい。私の考える「西洋音楽史」は「新奇な構築を行いたい」という欲求と、「自分を含め多くの人が聴いて分かるものを作りたい(すなわち『受けたい』)」という欲求のせめぎあいである。西欧以外の世界中の音楽家にもそういう欲求はあっただろうが、西欧の音楽家たちのように「何等の前提条件なしに聴いてわかる」ことを目指す必然性は強くなかった、ということが今日の西洋音楽を特異なものとしたのではないかと思っている。
上等のワインを一口飲んで、「このアロマと酸味と渋みからして、シャトー××産〇〇年物に違いない」などというのは、誰にでもできる芸当ではない。それができることは素晴らしい喜びかもしれないが、あくまでもそういう楽しみは選ばれた人だけのものである。出典の確かでない話で恐縮だが、非文明化地帯を訪れた者が驚くのは「名前」の少なさではなく多さであるという話がある。例えば道端の木や石一つ一つに固有の名前が付けられており、それらを包括する概念が存在しないのだという。なぜ概念が存在しないかと言うと、そういうものが不要だからである。人が多数のものを取り扱う場合、それらの共通性に着目して概念を形成するのだが、これらの人々は活動範囲が住居地から一定の範囲に限られ、かつ普段接する人の範囲も限られているので、包括的な概念を形成する必要がなく、逆に個々の木や石を個別に分別する必要性の方が優先する。その結果このような人たちの間では世界の分節がどんどん細分化される。すなわち彼らは先ほどのワインの専門家と同様に、その地域に関する「専門性」の高い人々であるということができる。
音楽も同様である。尺八の息の吹き込み方に様々な形式があり、それぞれが象徴する内容が異なるなどと言うことになると、素人にはちょっと近寄りがたい世界だと思わざるを得ない。それに対してフルートの古典的な息の吹き込み方は基本的には「単純な、認識しやすい音を出す」と言うだけのことであって、その代わりいろいろな旋律を演奏することにより楽器が表現できる世界を広げなくてはならない。すなわち、限定された世界においてモノの認識を細分化すれば高度な、専門的な世界となり、モノが容易に認識できるように「定型化」とか「概念化」すれば、それ自体の含蓄は小さくてもそれを利用して創造物を拡大することができる。私は前者を「ハイカルチャー化」後者を「大衆化」と呼んでいるのだが、もちろん両者の間に上下優劣をつけるような話ではなく、高級ワインの味の差を楽しむようなグルメの世界も、私のようにワインでも日本酒でもビールでも持って来いというような気楽な楽しみ方も、いずれもれっきとした楽しみ方であることは言うまでもない。
さて、西洋音楽の世界は、マショーとかパレストリーナとか大バッハとか、その時代の様式において「ハイカルチャーの頂を極めた」作曲家もあるものの、紆余曲折はあれ大きな流れとしては「古典派」に至るまで一貫して「大衆化」の方向に進んできたと考えている。先日のブログでも述べた通り「定型」によって理解すること、例えば和音の音響類型を三和音に制限して「和声」に概念化し、その「和声」の組み合わせに「カデンツ」という定型を設定するなどは、まさに認識の単純化による「大衆化」の方針である。こういう「大衆化」は童謡のようなシンプルなものを量産することに貢献する一方で、そういう単純化された要素を積み木のように使って大規模な作品を構築する手段となる。こういう方法論が行きつくところまで行ったのが音楽史上の「古典派」という時代である。なぜそう言えるかというと、その後の音楽史の流れは「個々の積み木を変形する」方向に向かい、さらなる要素の単純化の方向には向かわないからであって、その流れは今日のクラシックから大衆音楽まですべてを支配しているからである。
古典派の音楽の作り方を一口で言えば、それは「階層性のある構築」である。作曲家はすでに成立した「定型」を積み木にして、それを組み立てて作られた新たな「定型」をさらに大きな積み木として使用する。このように何重もの階層によって古典派の音楽は全体性の認識を確保している。モーツァルトの音楽などは特にこの階層性を重視してあらゆる水準の分節の認識を平等に確保しているところが「古典派」の名に相応しいのであるが、この先に進むとこのような階層性を維持すること自体が困難になり、全体性の認識を確保するために「認識の支援」としての文学性を持ち込むとかの方法が必要になる(それもまた別の「魅力」を構成するのだが)。
したがって、あらゆる分節の認識が確保されている(つまり「分かりやすい」)ということが「古典派」であるモーツァルトの「売り」であって、これは結局「大衆化」の行きつくところを示しているということができる。こういう「大衆化」がなぜ西欧において進展したのかが気になるところである。「生産性の向上と市民社会の成立」とか「宗教上の要因」とかいろいろな要因が挙げられるのだろうと思うが、いま問題としている「何等の前提条件なしに聴いてわかる」という観点からすると、大衆化の大きな要因は「文化の交流」である。音楽の受け手となる人間の属する文化の種類が多岐にわたり、それらの間で共通の理解が得られるような状況こそが、大衆化を促進するものである。ここで言う「文化の種類」は各々が属する民族・地域性・宗教慣習などのほかに社会的身分なども含まれ、それら各文化間の流動性が増大することが大衆化の原動力になる。
言語などでもこのような動きは存在する。英語のようにゲルマン系やラテン系(ほかにもゲール系など?)の各言語が混用され、世界各地に英国が進出する中でさまざまな種類の人間によって「英語まがい」が使用されるうちに角が取れてきた言語は、いわゆる「リングア・フランカ」として文法の単純化が進行している(※ただし、語源の異なる品詞の混用や、スペリングの混乱はあまり褒められたものではないと思う)。西欧において音楽の大衆化が進んだ理由も同様に、文化の異なる各地域間の流動性が高く、イタリア、フランス、フランドル、イングランドなどで常に新しい音楽の潮流が発生し、またそのような地域間の交流も頻度が高かったということだろう。
それに対して、アジア、中東、アフリカ等でも多分地域間の文化の多様性は確実に存在したが、そのような地域文化が交流し交雑するような条件に欠けるところがあった、ということが考えられる。例えば中国などで広域を支配する国家が存在し地域間の商業取引などが活発に行われても、文化的なかく乱が生じたイメージはあまりない。中国の歴史は異民族の中原侵入と建国の繰り返しであるが、その異民族はたいてい「中国文化」に取り込まれる結果になっている。これは言うならば、「文明」が「文化」を支配したということではないだろうか。「文明」は価値観を共有する集団の中で普遍的な価値を持つと考えられるもの、例えば社会制度とか技術とかの一貫した体系が存在することを言うわけであって、それは「文化」の違いを超えて浸透することになる。ここでは異なった文化が互いに影響力を及ぼしあうようなダイナミズムが存在しない。音楽史においてもこのようなダイナミズムが音楽の「大衆化」を促進してきたと考えられる。
音楽史の「古典派」に話を戻すと、上記のように音楽史は個性の異なる各文化によるかく乱とその影響下での新たな体系の創造によって、より共通の認識が容易な「大衆化」の路線に基づいて進行してきた。その行き着く先が「古典派」なのだが、このような事情によって「古典派」の様式はほとんど前提条件を要せず認識できるようなものとなっている。今日でも大衆音楽の大半は「古典派」のルールに従っているのだが、多くの人がカラオケで流行歌を歌えるのは「音楽教育」の賜物であるよりは「古典派」時代に確立した音楽のルールのせいであると言った方が正確であろうと思う。今日でも音楽における教科書である「和声法」「楽式論」といったものは、バロック期に成立し古典派時代に普遍的になった様式を教えているのだが、これらはすでに一種の「文明」に近い普遍性を保持している(その故にラモーの和声法が今日でも通用する)と思われる。(※いまひとつの教科書である「対位法」は和声による構築以前の様式を残しているが、これは西洋音楽の「旋法性」を反映していて、かなり「地域的な色彩」があると言える。それゆえ今日の大衆音楽においては比較的重視されない部分となっている。)
回り道が長くなったが、「モーツァルト」が白人文化なのかという問題を考えるうえで、「古典派」のルールの特質を考えることが必要である。例えばニュートンの力学法則は白人文化かというと、それは「科学」であり「文明」であって、「文化」ではない、ということになるだろう。「モーツァルト」はそれに比べれば西欧の地域的文化を反映しており、「文化」的な色彩が強いことは間違いないが、それは世界各地に存在する各種の民族音楽に比べてはるかに「大衆化」が進行し、かなりの「普遍性」を獲得していることもまぎれもない事実である。
結論的に言えば、今日の音楽現象を理解するうえで、どうしてもモーツァルトを研究する必要はないが(それは好みの問題である)、「古典派」の音楽の成り立ちを理解することは必須である。例えばよく「文化的背景を共有していない日本人に真の西洋音楽は理解できない」「ウィンナワルツの真の感覚はウィーンっ子にしかわからない」とかいう類の話があり、それはその通りかもしれないが、私にとってはそんな話は二の次三の次である。いろいろな薀蓄を積み重ねていけば音楽の楽しみも増えることは認めるが、西洋近代音楽の最大のメリットは「あまり予備知識がなくても楽しめる」ことにこそあるのであって、音楽が多数の人間の共有財産になることに対し、西洋近代音楽(のルール)が及ぼした貢献は巨大であると考える。
その証拠に世界各国には「国歌」というものがあり、オリンピックなどで聞くとほとんどの「国歌」は「古典派」時代に確立した音楽のルールに涙ぐましいほど準拠していて、「長調」か「短調」かのいずれかで作られており、周期的な偶数構成の拍節と古典的な和声法が使用されている。これは「西洋の植民地主義に伴う文化的侵略」のせいだろうか? 私は、それは「欧米諸国に並びたい」という鹿鳴館思想であるよりも、ひとえに「みんなで歌える」という典型的な「大衆化」路線ゆえであろうと思う。私の知る限り唯一の例外は「君が代」であるのだが、残念ながらこの歌は日本国民に評判が悪く「もっと明るく楽しい曲に変えた方がいい」というのが、一般的な国民感情であるらしい。ご参考までに私がQUORAに投稿した関連記事のリンクを添付する。
「君が代のコード進行やメロディは音楽理論を知っている人からすると美しいのでしょうか?」
以上、私はこのオックスフォード大学のカリキュラムが「モーツァルト」でないものとしてどのような音楽を教えるのか?という疑問から発して、ジャズやヒップホップには「モーツァルト的」な要素の方がそうでない要素より大きいという結論を示してきた。しかしながら私は、西洋音楽は世界の普遍であるので、それに集中すればよいというような現状肯定論を主張するものではない。むしろ逆に、現代人は大衆音楽を通じて十分に西洋音楽の「普遍性」に触れたので、これからは「西洋的」でないどのような音楽があるのかを探求すべきであると考えている。現代人は「君が代」が「辛気臭い」と感じるかもしれないが、それは古来の日本音楽(あるいは中国音楽)に対する理解が不十分なせいである。残念ながら世界各地の民族音楽は西洋音楽のように大衆化による風化が進んでおらず、何の前提条件もなく聴くこと自体が難しい。「ヒーリング効果」や「エキゾチシズム」で民族音楽を聴く向きが大半であろうと思われるが、先に例として挙げた「道端の木や石にすべて名前がある」ような世界には、より奥深い理論が存在することは確実である。そういうカリキュラムを具体的に提示するのであれば、私はこのオックスフォード大学の改革案にはもろ手を挙げて賛成である。本ブログのタイトルである「Ethnic Music Matters」は、以上の議論を踏まえたうえでの私の結論である。
最後に(どうでもいいことかもしれないが)私はモーツァルトが西洋古典音楽の特徴を非常に忠実に体現していると考えているが、それはモーツァルトの作品が理論の骨格を示すのみで血肉を備えていないということを意味しない。人間が音楽を聴く意欲を持つのは、それがあるルールに従っており容易に認識できることのみではなく、それが何か他の作品にない特別な要素を持っているためである。モーツァルトの音楽が「自然に」流れているように聞こえる場合も、彼はそこに数々のからくりを仕掛けていて、聴く人を飽きさせない。それにつけても、この記事でやり玉にあがるのが「モーツァルト」であってなぜ「ベートーヴェン」でないのかが非常に気になるのだが、この問題については別に稿を改めて検討したい。
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