<最近読んだ本>
「認知バイアス-心に潜むふしぎな働き」鈴木宏昭著 講談社ブルーバックス
認知科学に関する包括的な入門書である。いつもながらの入門書でお恥ずかしいが、非常によくまとまっていて読みやすい本だと思う。「認知バイアス」とは人間が合理的でない判断を行うパターンを言うが、特に2002年に行動経済学のカーネマンがノーベル賞を受賞したことが話題を呼び、広く知られるようになったようである。本書に出てくる話は、個別には誰しもパズルとか面白ネタとかで目にした内容だと思うが、このようにいろいろな項目を一覧にしてもらえると頭の整理になってありがたい。
自分の記憶のためを兼ねて本書の内容をご紹介すると、まず第1章では「チェンジ・ブラインドネス」(画面の一部が徐々に変化することに気付かない現象)のように、感覚に与えられたものがすべて意識されるわけではないことが示される。
続く第2章から第4章では、人間が論理的な思考より簡単な手続(「ヒューリスティック」)や単純な法則性に依存することを取り上げる。第2章の「利用可能性ヒューリスティック」はメディアなどで接することの多いものが実際に頻発していると感じる錯覚、第3章の「代表性ヒューリスティック」は有名な「リンダ問題」(社会運動をしている彼女は「銀行員」と「フェミニストの銀行員」のどちらの可能性が高いか?)を題材に、人間が「典型」によって物事を判断する傾向、第4章の「確証バイアス」はこれも有名な「4枚カード問題」を材料に、人間が常に単純な法則性を想定して判断することが、各々解説されている。
第5章はこれまた有名な「リベットの実験」を取り上げる。何かをしようと自分が思う前にすでに行動の準備は始まっている。それを人は「自分の意志で行った」という「作話」によって自分で納得している。とすれば「自分の意志」とは一体何なのか? 第6章では言語が対象の把握にメリットだけでなくデメリットをもたらす可能性を取り上げる。人間の顔に目と鼻と口と耳があることを理解していることは、「リアルな絵を描く」行為にプラスになるのか? 第7章では「創造」に関するバイアスが記述される。創造を阻むのは思い込みによる制約であること、「ひらめき」が生じるのは「失敗」の蓄積の上であることなどが述べられている。第8章では「共同」に関するバイアスについてである。同調圧力や分業による責任の希薄化が取り上げられている(同調圧力に弱いのは日本人の特質というわけではないようだ)。
最後の第9章は、まとめとしてこのような認知バイアスが一体なぜ生じたかを問う。認知バイアスが「合理的でない誤り」であるなら、人間はなぜそのようなものを発達させ、あるいは残存させてきたのか?というのが、本書のポイントである。その答えはこのようなバイアスによって、結果的に人間は効率的な判断を行うことができる可能性が高い(あるいは高かった)ということである。
例えば、「チェンジ・ブラインドネス」のような、「注目していない部分を無視できる」という能力は、それだけ注目している部分をしっかりと認識することにつながる。各種ヒューリスティックは「厳密性よりとにかく蓋然性の高い結論を素早く出したい」というニーズに応えるものである。言語に頼ることは、たしかに情報を刈り込むことで対象像をリアルにとらえることを妨げる可能性もあるが、それは言語の本質上やむを得ないことであって、その代わり言語には「物事を整理し固定的に記録することができる」という代え難いメリットがある。すなわち、認知バイアスは人間がいろいろな情報操作を行うために、必然的に進化してきた能力ということもできる。
しかしながら、情報のあり方も時代とともに変化してきている。例えば「統計的な処理を行う」というような操作は近代になってそのための道具が整備されてきたので、まだ人間にはそれに対応する感覚が進化していない。そのために「ベイズの定理」はたとえそれを理論として学習していても、実感としてそれをイメージすることができないのが現実である(本書第4章で取り上げられている)。また「口伝」の時代と今日のマスメディア全盛の時代では、反応すべき情報の量や質が根本的に変化している。これらを考え合わせると、我々はこのような認知バイアスがどのように働いており、それにどのように反応すべきかを改めて認識する必要がある、ということが言えよう。
さて、本ブログは「音楽ブログ」なので、ここから話は認知科学と音楽の関係になるのだが、私は50年前から「音楽は机上の理論先行でなく、どのように認知されるかによって研究され、かつ創作されなくてはならない」という信念を持ち続けてきた。今日「認知科学としての音楽学」は重要なジャンルになってはいるものの、それがいまひとつ音楽理論の根本に配置されることがないことに、私は非常に大きな不満を持っている。このブログでも拙著でも繰り返し述べているように、「音楽は音による数学の表現」ではなく、「音になった数学は音楽である」わけでもない。音楽研究のポイントは「それがどのように認知され受容されるか」であり、人間の頭の中の認知構造によって音楽がどのように理解されるか、であるというのが、私の一貫した主張である。音楽上の「美しい理論」は往々にして実態を反映していないし、理論から演繹した音楽(現代音楽に多いが、古典にも存在する)がきちんと認知されないのは聴衆の無理解のせいではない。
それで、認知科学から見た音楽の問題だが、本書の取り上げる認知科学の問題に関連したテーマはいろいろと考えることができる。例えば「チェンジ・ブラインドネス」の話からは、何が音楽聴取において注目され、作曲家や演奏家はそれをどのように利用しているかといった問題が考えられるだろう。また気が付いたテーマはその都度本ブログの別項で取り上げることとし、ここでは一つの例として本書第3章の「代表性ヒューリスティック」に関連して「協和度感覚」というものを取り上げてみたい。
現代の人間にとって、音楽で「ハモっている」典型として考えられているのが「ドミソの和音(長三和音)」である。これは音楽の教育を受けたと否とにかかわらず、今日万人にとって「響きがいい」とみなされていて、それに何らかのバイアス(偏り)があると考える人はいないだろう。それが協和音程であるのは「事実」だから何の問題があるのかと言われそうだが、実のところ西洋でも中世においてはれっきとした「不協和音」であったのだし、日本の伝統音楽においても意識して用いられることのない(すなわち、忌避されるべき)和音であった。
当然、音程の関係だけから言えば、オクターブとか完全五度とかは三和音(すなわち五度+三度)より単純な音程なので協和度は高いに決まっている。それでも今日ポップスで「ハモっている」フレーズといえば三度や六度の連続で歌われるものであって、わざわざ五度の連続を使ったりすることはよほど特殊な効果に限られる。私に言わせれば、三和音の選好というものには特殊なバイアスがかかっていて、実際の物理的協和度とは異なる判断が働いているということになる。
※それがもっと先鋭に見られるのは「完全四度」という、これまた協和度の高い音程であって、バロック~古典期の音楽理論においてはこれが純然たる「不協和音」とみなされていたという事実がある。
それが今日代表的な「協和音」と考えられているのは、ルネサンス前後に発生した「和声」という考え方のためである。非常に大まかな話で言えば、従前の協和音程である五度や四度に対して第三の声部を追加するといろいろなパターンができ、それぞれの種別を分別して認識することが難しい。その中で比較的よくハモるのが三度を加えた三和音であって、それが定型として使用されるようになった。かつそれが定型として利用されるうちにそれは音の組み合わせである「和音」から、音響類型としての「和声」に変貌する。こうして時代がバロックに入ると作曲家は「和声」の組み合わせ、すなわち「和声進行」によって作曲することになる。ここに至って、人は本来の協和音程である五度よりも三和音の方を「協和した、美しい響き」であると意識するようになる。
私にはこれが、典型的な「代表性ヒューリスティック」の成立であるように感じられる。社会運動をしているリンダは「銀行の窓口係である」より「フェミニストで銀行の窓口係でもある」可能性が高いと思うのは、「五度音程」より「五度+三度からなる三和音」のほうが協和音として相応しいというイメージとつながらないだろうか。それは「社会運動をするような女性はフェミニストである」「三和音は常に協和音程として音楽(特にその開始や終止)に用いられる」というような「代表性」意識ゆえである。その証拠に、協和度においてより問題が少ないはずの完全五度は、和声法において「空虚五度」と呼ばれるという不当な扱いを受けている。
そういう話をするとすぐに、「いやいや三和音は倍音列に沿って構成されているから協和度が高いのであって、その協和度の高さはバイアスではなく物理的根拠に基づいている」などという輩が出てくると思われるのだが、ここでリーマン理論などを持ち出されると話がややこしくなるので別の機会に譲りたい。とにかくここで言いたいことは、ここ300年ほどの間に人間の文化に「協和音程の代表」としての三和音が確立してしまったがために、それ以外の音程がすべてそのバイアスがかかった状態で見られるという事実である。そうして、本書の第9章で「認知バイアス」が存在することのプラス面が語られているとおり、こういう「和声」としての和音の種類(音響類型)の整理は、バロックや古典派の音楽のようにその上に大きな構築を行うにあたって非常に有効であったために、それが「自然」であるような錯覚が広く共有されるようになったことを忘れてはならない。
で最後になるが、このような「認知バイアス」が成立した背景と、現代の生活状況の差を考えると、認知バイアスの有用性自体にも様々な条件が付くと考えられるように、音楽における様々な常識も西洋近代音楽の成立を背景としているものであって、今後我々が音楽の多様性に目を見開いていくうえでは、どこまで有効であり続けるのかはよく考える必要があるというのが私の結論である。
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