「君が代」についての第3回(最終回)です。
(こちらから読まれた方は、併せて第1回、第2回もご覧ください。)
前回、一般的な「国歌」という観点から「君が代」を検討したが、音楽の話に戻って、そういう国歌のメロディが本来持つエトスをどのように利用するかという問題である。「君が代」本来のエトスは、それが当初想定された国賓を迎えるような場においては、前回述べたような「改まった気分」を演出するためには格好のものであることは間違いない。しかし、五輪の表彰式のような「各国の代表に対する勝利を祝う」場において、この曲が「歓喜」の気分を盛り上げることができるだろうか。そこで改めて例のエッケルトの編曲の話に戻るのだが、この編曲は最初の2小節と終わりの3小節を除いて、曖昧ながら長調の和声付けが行われている。最初は「荘厳な」ユニゾンで畏まりながら始まるものの、3小節目に長調の和音が鳴ると、何となくほっとする気分になるのは、もちろんわれわれが西洋近代の枠組みの中に完全に取り込まれ、「長調」=「明るく楽しい」という強固な観念を持っているからである。
この曲は一応「律旋法」によっていると言われており、その「主要音(核音)」は「レーラ」なので、それを部分的にでもハ長調で和声付けするというのはなかなか大胆な発想だ(実際、本来の旋法においては「ハ(=ド)」は経過音あるいは装飾音的にしか使用されていない)。これを旋法の主要音である「レ―ラ」を軸に西洋風に和声付けすると、いわゆる教会旋法の「ドリア」が出てくるのだが、このメロディは和声付けに必須の「ファ」(変格旋法における属音)を避けているうえに、ドリアの近代的和声付け自体にもあまり「明るく楽しい」イメージはない。ドリアでなく「ニ長調」(終止音ニの下が全音なので、長調ではなく「ミクソリディア」になるが)で和声付けすることを考える人もいるかもしれないが、このメロディには合いにくいうえに、ミクソリディアも古雅なイメージが先行して、あまり明るくはない。
※念のために言っておくが、今日広く行われている「教会旋法」は中世的な旋法のメロディに近代和声を当てはめた近代固有のものであって、その本質は日本の演歌などと同様ハイブリッドな「調性音楽」である。
だからこそ、この「君が代」という、明るくも楽しくもない曲に、瞬間的にでも「長調」的な明るさを感じさせるエッケルトの編曲は貴重なものである、と言うことができる。しかも、無理に全体を「ハ長調」にするのではなく(それはそもそも無理があるが)、前後をユニゾンにして調性をあいまいにするあたりは、民族音楽への敬意すら感じられるような気がする(「苦し紛れ」なのかもしれないが)。
で、なぜ「ドリア」や「ミクソリディア」では明るく楽しくないのかということが、実はこのブログの本題である(やっと本題に入った…)。もちろんこれらの旋法が本来的に明るく楽しくなかったと言うつもりはない。多分古代ギリシャや西洋中世の時代にはこの種の旋法によって陽気な曲が演奏された可能性は大いに想定できる。しかし、ルネサンス以降西洋近代の音楽様式である「調性」が確立するとともに、「明るい長調と暗い短調」という二分法が常識として確立した。それがなぜかは過去何度か取り上げたかもしれないが、長三和音と短三和音の性格を決める(主音に対する)三度音程が、わずかながら長三和音の方が響きがよい(振動数比にして4:5と5:6で、前者の方がより単純な比である)ということである。
そうして、明るいにせよ暗いにせよ、何が長調と短調にそういう明確なエトスを与えているのかというと、それは西洋近代音楽に存在する旋法的特質であるというのが私の考え方である。例えば、ハインリッヒ・シェンカーは「ミレド」あるいは「ソファミレド」がこういう音楽の骨組みを作っている「原型」(ついでながら、先に述べた「近代的教会旋法のドリア」ではこれが「ファミレ」に相当し、「君が代」の律旋法とはずれがある)であると考えたのだが、一概には言えないと思うものの面白い発想である。
※ブルックナーおたくに言わせれば、「ミレド」はブルックナーの交響曲の象徴的存在であるらしい。あまり私には理解できるとは言いがたいが…
もちろん常識に属することだが、西洋近代和声の旋法的特質といえばその最たるものは「導音進行」である。中世の教会旋法にはフィナリス(終止音)の下が全音のものが多く、「半音の牽引力」を積極的に利用しようという気配が感じられない(しかし実際には楽譜にかかわらず日常的に半音上げて演奏されたことも多いようである)。中世後期からルネサンスにかけて三和音が和声の代名詞となり、和声にカデンツ(終止形)という類型が確立すると、それと整合性をもつものとして半音の上昇進行が「導音」すなわち分節性のマーカーという確固たる地位を確立する。これによって「和声進行」と「旋法」が一体となった強力なシステムである「調性」が成立する。
このように、「君が代」に部分的に導入された西洋近代和声は、音響類型(いわゆる和声)と旋法に「典型的な類型」を持ち込むものである。それは「多様性」を制限することであり、ある意味「ワンパターン」さを推進するものであるのだが、それによって我々は音楽の構造に明確な認識を持つことができる。こういう状況は音楽史上何度も発生しており、多分ほかの芸術や学芸でも同様ではないだろうか。これは世界が単純なものから始まって複雑なものに至るという俗流進化思想に対する頂門の一針であろうという気がする。
繰り返しになるが、世界の国歌は「長調」か「短調」で、その貴重な例外が「君が代」であり、それは「みんなで歌って盛り上がる」ことを想定していない、すなわち「本来的には強固な認識のためのルールに支えられた西洋近代音楽でない」ということなのだ。すべてが長調か短調かというのは単純な構造ではあるのだが、認識しやすく万人が共有しやすいものである。だから「みんなで歌って盛り上がる」ためには最適のものの一つであって、それは必ずしも「鹿鳴館思想」あるいは「西洋文化の帝国主義的侵略」というようなものでは片づけられない問題である。
インドネシアのガムランの音階であるスレンドロなどは、村によってそれぞれ特有の音律(というより各村にあるガムランの楽器セットの音律)があるらしい。こういう状況でスレンドロによる国歌を作ることができるだろうか。村々で音律に対する感性が異なり、共通の認識がないような状況では、それは難しいと言わざるを得ない。もちろん民族音楽(民謡など)にはもっとシンプルで認識しやすい構造も多くあって、みんなが共有できるような民族主義的な国歌を作ることは不可能ではないと思うのだが、西洋近代音楽のような「単純な原理によって大規模な構築を行う」という方向性はざらにあるわけではないので、やはり「結局洋式が便利だ」ということになるのだろうと思われる。
最終的な結論として言うならば、「君が代」はその成り立ちからも、現行の編曲の形態からも(エッケルト流によってやや救われてはいるものの)「明るく楽しい」「みんなで盛り上がる」ような曲ではない。それが不満であるという向きは多いかもしれないが、私としてはこの曲は国民を一律洗脳するような危険な力のない比較的無内容なものであって、多様性を重視する今日の社会においては悪くはないと思う。それでも、この曲の歌詞に歴史的負担を感じる人が多ければ、それ以上擁護する必要があるとは思わないが、国歌というものが外国との差異を際立たせるために存在するという考え方からは、このメロディは際立っていると思うし、謎めいたエッケルトの編曲もある意味悪くはないと思うものである。
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