ここしばらく毎日遺影に線香を手向ける生活を続けている。百箇日を過ぎてまだ残念ながらどうも無気力な状態から脱することができずにいるので、無理にでも何か目標を決めて前に動かないといけないと思うのだが、ブログも書きかけては中断するような調子である。
さて、我が家は一応仏教徒なので、遺影・遺骨の前にろうそくを灯して線香を立て、お茶湯を供えるという様式なのだが、考えてみれば自分に「信仰」というモノがあるかどうかというとなかなか答えるのが難しい。
このブログでは政治・宗教・仕事に言及しないルールにしているのだが、とはいえ霊魂とか地獄極楽とか最後の審判が本当にあるかと言えば、まあ現代人の常識としてはないと考えるのが普通だろう。しかし、だからと言って、遺影の前に手を合わせて、故人があの世で安らかに過ごしていればいいなという気持ちはやはり押さえられない。以前は私がそんなことをするとは考えたこともなかったが、気が付くと遺影に向かって何やかや語りかけている有様である。
一方、例えば仏教、とりわけ原始仏教から大乗仏教への流れを「哲学」として捉えることは別に不思議なことではない。輪廻などという思想を別とすれば、仏教というのは例えば般若心経などに典型的に見られるように、「無」という事態をしっかり認識することによって、将来に対する不安を除くということを目標にしているわけであるから、これはエピクロス派から現代にいたる各種哲学の最終的な目標と方向性が同一であるように思う。つまり仏教から神仏を取り除けば哲学だけが残るのかもしれない。「色即是空」などというのは意外に現代人の理性には受入れやすいスローガンではないかと思われ、アメリカのインテリ層がよく禅の修行に惹かれたりするのも、もっともな気がする。
しかしながら、そうやって真理を悟ったとしても、それでその先生きていく上であらゆる不安が解消されるものだろうか。現実に毎日生きていくことは不安の連続であり、またさまざまな欲望(=煩悩)がなければそもそも生きていくことすらできない。腹が減ったとき食欲という欲望がなければ栄養を補給することができない。よほどのカルト宗教でない限り、どんな宗教の教えも早く死んだほうがいいなどとは言わないだろう。
ここからが本題なのだが、私は「仏に線香を手向ける」というような行為も、結局は生者が日々を生き抜くための知恵であるように思う。死者に対して「生前ああしてやればよかった」というような後悔や、そのような後悔を引きずることで生じる先々への不安など、そういう生きていく上でのマイナス要因を払拭するために、一見無意味に感じることでも「死者のために」何かをするという行為は有効なのだ(宗教を真面目に研究しておられる方々から見れば誠に浅薄な見解かもしれないので、先にお詫びしておく)。
拙著にも書いた通り、人間の精神構造は常に環境の情報を広く収集し、それに対する複雑な対応を取っていくようにできている。すなわち、我々の頭脳は取り入れた情報を記憶されている情報と照合し、最善の対応を選択していく計算機であり、そこが特定の環境のみに依存している人間以外の生物と異なる点である。我々は例えば情報に対する最善の対応をその都度編み出すのではなく形式化して固定したり、ある種の無害と思われる情報を無視したりするなどによって、頭脳への負担を減らすこともできる。しかし、それでもなお「対応しきれない情報」は残るし、それをいつまでも引きずることは頭脳により大きな負担を掛けることである。これに対するベストの対応は何も考えないこと、すなわち「睡眠」なのだが、本格的な睡眠が取れるような状況でないときもあるだろう。
ここで「文化行動」が登場する。これは一見して生存のために実施するものではないが、結果として生存に寄与しているものである。これは「何をしても無駄な場合、何もしないのではなく何か行動するほうが、精神的に安定できる」という理屈によるものである。(一般に文化行動と呼ばれるものの中には生存のためという明確な理由があるものもあるので、誤解を避けるため、拙著の中では「余暇活動」という色の付かない表現を使用している。)
人間の生死というのはある意味どうすることもできない問題であって、線香を手向けることの効果は私には確認できないものであるし、無意味かもしれない。念仏を唱えるのがいいことか悪いことかは、親鸞ですら「分からない」と言っているくらいである。しかし、厳しい立場に置かれた場合、何かしたいという願望が念仏を唱えることにつながる気持ちは私にもある。だから、宗教の立場からはともかく、このような余暇活動はある意味立派に生存に寄与していると言うことができる。私の持論は「たとえ無宗教者であろうと、宗教行為をすることには意味がある」というものである。
(*)ついでに言っておくと、AIがオーバーヒートした場合の対応は人間の「睡眠」に相当する「休止」であり、AIには文化行動を実施する理由がない。だから、AIは自発的に宗教を発明しないし、文化を創造することもない。
長々と述べてきたが、拙著に記載する通り「余暇活動」すなわち「遊び」とはそういうものである。スポーツもゲームも鑑賞芸術も、すべてがこの目的のために実施されている。本ブログサイトの一貫したテーマである音楽ももちろんそうであり、ある意味「生存」から最も遠いところにある、典型的な余暇活動ではないかと思われる。かつ、音楽という形で様々な音を形式化し固定することは、そのような余暇活動を迅速容易に利用できる方法であることは「念仏」と全く同じである。音楽に音楽理論があり様々な形式があることは、それを意味している。
実は先般来、故人の追悼のためにチェロの曲を作り、いまピアノ曲にも取り掛かっているのだが、作って聞いてくれる相手がいないのは、遺影の前の線香と同じだ。しかし、誰も聴いてくれないかもしれない曲を作ることも、結果的には私の精神の安定につながっているような気がする。誰が読んでくれるかもわからないブログを書く行為も、ある意味自己満足かもしれないのだが、また読んでいただいた上でご意見などもいただければ誠にありがたい。
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