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「心はこうして創られる」

 

 

<最近読んだ本>

「心はこうして創られる―『即興する脳』の心裡学」

ニック・チェイター著 講談社文庫メチエ

 

この1年半ほどの間、あまり読書の気分にもなれない中で、それでもいくつかの本を読んだので、その感想文を順次アップしていきたい。

 

その第一弾としての本書の内容は、語弊を承知で一口に言うと「人間には心という永続しているモノがある」という、一見当たり前の話に異議を唱える、というものである。そういう常識に反するような説を示すにあたって、著者はいろいろな実証実験の積み重ねによって一般的な常識を崩していく。

 

まず、入り口として「人間は一度に限られた事しか認識できない」という話が出てくる。私は昔から物事に集中すると周囲が見えなくなる性格があり、自分でもそういう性格(今では「ASD(自閉症スペクトラム障害)」という名がついているらしい)を問題だと思っていた。こういうブログ書きなどしていると、横でやかんの湯が沸騰していても気が付かないようなことも多く、家内にあきれられたものである。しかし著者によると人間はそもそも一度に複数のことを同時に継続して認識することはできない。

 

それを示すものとして、「凝視条件付眼球運動」というやや信じがたいような実験が紹介される。これは自分が集中的に見ている部分だけ正常な文章が表示され、その他の部分は無意味な記号が表示されるような装置を使って読まされているにもかかわらず、人間は全体が正常な文章からなる画面を見ていると信じるというものである。つまり、我々は常に視野の全体が目に入っていると思っているが、実際に認識しているのは関心を持って見ているその部分に過ぎない、ということである。(類似のものとして「関心を持って見ている以外の視野には色彩が付いていない」という驚くべき実験もある。)

 

※ これに関連して、入力が音である場合「カクテル・パーティ―効果」すなわち、様々な音が同時に聞こえている中で自分に関心のある音だけが目立って聞こえるという現象が存在する。これなど、「認識されるのは意味のある一つのものだけである」という本書の主張を裏書きしているように感じられる。

 

したがって著者によれば、人間は「意味のある塊」を一つずつ認識することしかできない。人間の意識は、一つの「塊」からほかの「塊」に次々と移行するが、そこに本来的な連続性はない。我々は、目に入るもの、聞くもの、その他すべてが心の奥に認識されていて、それらの中で精神の表層に上がってくるもののみが意識されると考えがちだが、そのような「心の内面」などというモノは存在しない。当然フロイト学派的な、心の中に常に存在する深層心理・潜在意識が考え方や行動に影響するというような考え方は否定される。

 

とはいえ心には瞬間瞬間の思念しかないと言われても、「私には永続的な(一つの)心がある」ことを否定することは難しい。その理由について著者の考え方は、我々が心の実在を信じるのは、その時々の想念を瞬間的に連携させてつじつまを合わせることができる能力ゆえだというものである。本書にはその能力に関する実験がいろいろと紹介されている。例えば、同じ顔を見せても、様々な背景に置かれると全く違った表情に見えるというのは認知心理学のお馴染みの実験だが、まさにこの「解釈する能力」の大きな力を示している。あるいは、政治的に保守的な意見を持っている人と革新的な意見を持っている人それぞれに特定の政治的な質問をし、回答を書いてもらう。しばらく経った後で本人に、本人が書いたのと逆の回答を渡して、「あなたはどうしてこのような回答を行ったのか」と訊くと、多くの人が、自分の本来の見解と異なるにもかかわらず、その(逆の)回答を擁護するような理屈を無意識的に発明する、というような実験は、選択という心の働きがこの「解釈する能力」によって流動化してしまう例を示している。

 

このように人間には様々な想念を受け止める固定的な「心」は存在せず、その代わりに各瞬間の想念を即興的に結び付けたものだけが存在する。これが、本書のタイトルである「心はこうして創られる」ということの趣旨である。かつ、人間には自分がそのような即興を行っているということを自覚することはできない。そのため、我々は心の実在と永続性を常に信じざるを得ない仕組みになっているわけである。

 

そうして、このような脳による即興が即時に行われるにあたって重要なのは「前例」である。当然、瞬時に入力された概念に対して本質的な原理を検討することには脳の情報処理速度の限界がある。そこで、もっともらしい説明のために脳が利用するのは既に記憶の中に格納されている「前例」であり、人が往々にして既往のパターンに飛びついて解釈や決定を行うのはこのためである、ということが主張される。

 

例えば、本書のカバーにはお馴染みの「ペンローズの三角形」類似の図形(オスカー・ロイテルスバルトの不可能物体)がデザインされている。この三角形の三つの角それぞれだけを見ると、これが自然な立体であることを疑わせるものは何もない。詳しく分析すればもちろん不可能物体なのであるが、全体として見てもこれが自然な立体であるようにしか見えない。これは我々が類似の立体をいろいろ見てきているため、これらの線のつながりを正当な立体として解釈することに慣れ親しんでいるからである。

 

本書にはほかにも意外性のあるいろいろな主張や、それを裏付ける各種の実験結果などが盛りだくさんに挙げられており、ここにはご紹介しきれないが、それらを通じて著者は、人間の心というモノには表面しかなく、「本当の自分」を探して心の奥を掘り下げようとしても無意味である、というかなり刺激的な意見を表明している。上述の通り著者は「考える心」は常に表層にある様々な想念の連続であって、深層心理というものは存在しないと考えるため、「無意識」の重要性という類の話には否定的である。

 

例えば、本書には数学者ポアンカレと作曲家ヒンデミットが、それぞれ数学の解法や作曲で行き詰ったとき、しばらくその問題から離れていると突然解決策がひらめいたりするのを、「無意識のうちにずっと考えていたことの結果が現れる」「一瞬のうちに心の中で構築されていたものの全体がひらめく」と当人らが表明する話が出ており、著者はそのような過程はすべて錯覚であるとしている。(私は残念ながら天才作曲家ではないが、自分が作曲で行き詰った経験からすると、それらは多分固定的な観念に支配された脳が、時間を置くことによってそういう固定的な思考経路から解放され、まったく違った道筋を取れることになったことが大きいと思われる。)

 

結論として言えば、著者は「無意識」というあいまいな、存在の明確でないものを退け、「心」は意識の表面に浮かんだものだけで構成されているという主張を行っているのだが、実に快刀乱麻を断つ勢いがあり、しかもそれが各種の実験に支えられているというのが本書に迫力を付加している。私は常々音楽理論というものを天下り的な原理原則にはめ込もうというやり方に異議を唱えているのだが、その中には往々にして無意識の過程を強調するものが多い。詳しい説明は省くが、リーマン理論の「下方倍音列」だとか、「音列技法」だとか、「明確に認識できなくても何らかの作用を及ぼしている」的な説明がなされるケースはいろいろとある。そういうものを一から見直すためには、本書のような考え方は頂門の一針であろうという気がする。

 

以上、本書は明確な主張があり興味を惹かれる点は多々あるのだが、それに全面的に賛成できるかと言うとそこは微妙な気がする。「心」はその都度意識されたものしかなく、記憶との間のつじつま合わせが都度即座に行われているというのだが、そこに永続的、固定的な実体は何もないのだろうか? 人間が意識する「意味のある塊」は、「凝視条件付眼球運動」の実験においては人が意識するのは単語である。しかし個々の単語が理解できても文意が理解できたことにはならない。そのためには短期記憶に格納した情報を利用して解釈を行う必要がある。すなわち、文を読むことは入力情報と記憶情報を相互に連携させることである。

 

記憶は意識の表層に常駐しているわけではない。知覚(入力情報)に対してその都度呼び出されるが、それはすぐ意識に上がってくる明確なものもあれば、明確でない「感性」のようなものもある。それらが意識の表層に及ぼす影響はそれぞれに異なるだろう。すなわち、記憶は「心」と不可分な一体あるいはその一部をなしていて、むしろそういう相互作用こそが「心」の実体であるように思われるのだが、著者が主張するような、意識の表面にしかない「心」というものをどのように考えるべきかは、なかなか難しい問題のような気がする。

 

特に、著者が一度に認識できる単位とする「意味のある塊」であるが、言語の場合と異なり音楽の場合には「単語」のような明確な単位がない。普通の音楽には「個音」「メロディ」「和声」といったような多種の分節が認められるが、我々はそれらを時間の順に認識しその都度過去の記憶と照合しながら自らの頭の中で新たな分節性を見出し、音楽の形式を作っていく。それら往々にしてゲシュタルト化した強固な塊として記憶された分節の組み合わせとして音楽は成立しているわけである。つまり、音楽を聴く人は絶え間なく即興的に個音や音群の間の関係に「意味」を見出し続けているわけであるが、それは記憶自体を絶え間なく再構成し続けているということでもある。

 

これは本来、言語を理解する場合よりはるかに大きな作業負担になるはずである。しかし本書の述べるように、心は記憶から呼び出した「前例」を使ってこれらの音楽上の「塊」の間に関係を見出す。それは結局確立された音楽の形式に沿って音楽を聴くことでもある。我々の頭の中には山ほど「音楽理論」が入っていて、それ故音楽に全く趣味のない人でも、ピアノの初心者がミスタッチしたりするときちんとそれを認識できる。つまり、意識していなくても音楽に関するある程度の判断ルールは万人の頭の中に存在している。このように、意識と一体になってそれを支えているものを「心」から除外するのは難しいように感じる。

 

あるいは、ハインリヒ・シェンカーは古典的な曲に共通の「ウアザッツ」という原型があり、これが心の中に存在することで古典的な曲の形式が(いかに巨大なものであろうとも)理解できると言う。シェンカーはこういう曲の枠組みに対し曲の各部分を関連付ける「遠聴」能力が備わっていることを前提としているが、それは意識上に呼び出される場合もあれば、無意識的に作用する場合もあるようである。私の見るところでは、これはフロイトやユングの思想と同様に、「心」の一般的なパターンが無意識のうちにも存在するというアイデアに近いように思われる。

※ 遠聴能力について「音楽の認知心理学」(リタ・アイエロ編)第3章では、そのような能力は必ずしも明確に存在するわけではないことが示されている。

 

音楽において、本書の言うように「意識されていない心(無意識)は存在しない」と断言できるかは、今後そういう実験や研究がどの程度進展するかによるものと思われるが、与えられた分節をルールに従って理解する言語と、分節を頭の中で設定しなければならない音楽との違いを考えると、音楽の場合意識と無意識の境目の微妙な部分が存在しても不思議ではないような気がするし、先に述べたように、そういう平素意識していない記憶や情報処理方法も含めて、知覚した情報に対する対応のあり方こそ「心」の実体ではないかと思うのだが、いかがだろうか。

 

ところで、この件は前々回および前回話題にしたAIの動き方とも関連が深いように思われる。生成AIによる文章、絵画、音楽などの創造を見ると、ブログに書いたように「全体的な構想」より「単位分節同士の組み合わせ方の傾向」に依存していることが多い(それ故「AIは何も考えていない」と言われる)ようだが、これは本書の主張する「意味のある塊同士が即興的に作り出した関連性によって組み合わされる」という過程を思い出させるものである。結果的にそういうミクロな組み合わせからもっともらしい文章なり絵画なりが作り出されること自体が驚異的なのだが、これはそういうミクロの構築原理から大きな構成が創発してくることを表しているのだろうか、あるいはそれらがお手本にしているもの(人間や自然が作ったもの)の構成が反映されているだけだろうか? AIの動作原理が分からないと何とも言えないが、もしわれわれの「心」も「常に関係性を即興しているシステム」に過ぎないと考えると、「心」の見方が随分変わってくるような気がする。

 

 

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