比較的最近出た本だが、「ハーモニー探究の歴史」(西田紘子ほか編 音楽の友社)という本を読んだ。初心者向けに和声の研究史を分かりやすく解説した本で、いい本だと思うが、それについていろいろ感じたことがあるので、ほかにいろいろテーマが控えているのだが、先に「和声」というものについて若干深く追究することにする。これ自体非常に重い話題なので、ここで全てを論じることはできないが何卒ご容赦いただきたい。
私はどうも、いろいろな文献で「和声」と「和音」の使い分けが乱れていると感じることが多い(上記の本でもその区別は常識に任せて、取り立てて問題にしていないように思う)。どちらかと言うと、「和音」は複数の音を同時に重ねたもので明確なのだが、「和声」のほうの定義は何となくあいまいな気がする。ずっと以前音楽の基礎的な解説書で「和音の構成音が三つ以上になると、それは和声という言葉の方が相応しくなる。」という解説を読んで、非常に違和感を持ったことがある。こういうあいまいさが英語(Accord/Harmony)その他の言語ではどのようにとらえられているかも気になるところである。
もちろんそういう問題でないことは確かだ。そもそも「ハーモニー」という言葉の元は「協和」であって、この言葉は歴史的には協和的な和音を作る方法を意味していたわけである。2つ以上の音が「協和する」とはどういうことか?という話になると、ピタゴラス的な「振動数の単純な数比」とか、音響学の方面で論じられる「協和度(あるいは不協和度)」という概念とか、ほかにも認知科学の方面からいろいろな考え方があるようで意外と難しく、それはまた別途考察したいが、ここで問題として取り上げるのはもちろん現代的な「和声」という言葉の使い方である。
今日和声という言葉は「和声法」「和声進行」というような形で使用される。「和声法」においては音楽の一部分を切り取って、その部分の和声が何であるという言い方がなされる。すなわち和声はそこに存在する音と独立な実体である。「この部分はドミソの和声だ」と言っても、そこにドとミとソの音が必ずしも存在するわけではない。ベートーヴェンの「運命」の最後の音のように、そこにドしかなくてもそこに存在する和声が「主和音」(ドミソ)であることを疑う人はいない。ただしそこにはドミソという「和音」で代表されるような特別な響き、音の同時的(垂直的)関係が存在することが暗示されており、それは実際に鳴る「ドミソ」という和音とは別の実体である。以前拙著では「同時的構築である和音を抽象したもの」という表現をしたが、それは間違いではないと思うものの、ことの実態を明確にしているかはやや心もとなく、言葉が上滑りしていないかという反省がある。
拙著に書いた話を念のため再度ご説明するが、西洋音楽史的に見ると中世~ルネサンス音楽においてすでに個々の和音から離れて「和声」が存在するとみなされるような様式が見られる。対位法の教科書を習うと、一応「和声」に関する規則が出てくるのはこのことを表している。バロックに入ると「数字付低音」という独特の習慣が一般化するが、これはバスに対してどういう和音を当てはめればその部分に存在する和声を表現することができるかということを示している(具体的にどの音を弾けという指示ではない)。つまり、バスと数字によって表されるものは、それで示される和音というよりは実質的な和声であると言ってもいいだろう。
このようにバロックにおいてはバスと数字で和声が暗示されるようなやや中間的な様式であったものが、さらに古典派に入ると和声はバスから解放されて、より大きな楽節単位での和声を考えるような様式となる。ここで和声はバスの動きに沿って進行するのでなく、和声そのものが変化していく、いわゆる「和声進行」という新たな実体が曲を動かす原動力となる。そういう過程の最終段階は現代のポップ・ミュージックに使用される「コード・ネーム」というもので、ここではバスが表示されることもあるものの、CとかG7とかいうコード・ネームは現実の音を指示するのでなく、それらによって表現される響き、まさに「和声」そのものを表している。
このように独立した実体としての「和声」が成立することは、現実の音が捨象されることである。実際の音は決まった高さと時間的な要素があって、その音の水平的配置は「継起性」の規制に従うのだが、コード・ネームにおいてはそのような配慮は基本的に二の次となる。現実の「高さ」(ピッチ)の代わりにここで問題となるのは「音名」(ピッチ・クラス)である。
話が古代に遡るが、旋法(=旋律パターンの整理)の開発によって発展してきた音楽史上、ギリシャや中国のような高度な文明においては「オクターブの同一性」という重大な意識改革があり、オクターブ上の音と下の音が「同じ音」である(同じピッチ・クラスに属する)という新たな特性を保持することになった。すなわちこれは「現実の音」から仮構の「音響」を個別化する一つの重要なステップである。よく「男性と女性が同じ歌を歌ったとき、それらがオクターブの関係であることに気付くことにより、オクターブの同一性が認識された」などと言われるが、これは一種の意識革命なのでそれほど簡単なことではない気がする。これは同音だけでなくオクターブを、協和する特定の「響き」ととらえたことであり、すなわち「和声」の最初のステップであると言えるだろう。すなわち、これは「音響類型」を識別する最初の試みであると言うこともできる。
※ちなみに日本民謡や謡曲などは、オクターブの同一性を常に意識し利用しているとは必ずしも言えず、オクターブ内で使用されるピッチ・クラスのリストである「音階」という概念は妥当しないケースが多いと思われる。
音をピッチ・クラスとして捉えることにより、和音を「転回」しても同一性が失われないことになり、さらに和音の構成音がどのオクターブにあってもいいことになる。こうして音の同時的構築である和音は抽象的な実体である「和声」が確立する。ここまで来れば和声は現実の音の構築である「旋律」とか「バス」とかと(緊密な関係を維持しつつも)独立したものであると考えることが可能になる。こう書いてしまうと簡単だが、和声のような「音響類型」を感じること、それを分類できることは決して単純なことではない。多分その発明には高度な文明を要したと思うのだが、その割に現代人は普通に和声という実体をある程度理解できている。ギターの素人が間違ったコードを弾いていれば、何のコードか分からなくても間違っていることはほとんどの人が分かる。
それは、和声が「極力区別しやすいように」整理されており、しかもその配列ルール(終止形)が規制されていて同じような配列に我々が慣れているからに他ならない。同時に鳴る三音を区別して認識することは二音の認識に比べてはるかに高度な能力を要する。しかし区別すべき対象がドミソ(T)とファラド(S)とソシレ(D)の三種類(いわゆる「スリーコード」)だけであって、かつ「ドミソ」も「ミソド」も「ソドミ」もいっしょくたで差し支えないとなれば、それぞれの音を個別に認識するよりずっと単純な「音響類型」としての認識方法を利用することができる。(現実の作曲においてはバス音や転回形が何かは重要であるが、それはあくまで二次的な必要性である。)
ということは、「和声」というものは「区別される響き」であると言うことができる。音楽に使用される音響類型は無数にあるだろうが、こうして響きのパターンを限定し、互いに差異が識別できるように規制することによって「和声」という実体が認知されるわけである。現象学的に言えば、音楽のみならず、我々が個物(実体)であるとして識別するものは、互いの差異が体系化されたもののみである。例えばトーン・クラスターのような音響類型も、その差異において利用することは現に盛んにおこなわれているわけであるが、それが体系として我々が容易に認識区別することができるかというと、そういう手法(クラスターをその差異において分別し、認識容易なように配置する定型)はまだ生まれていないような気がする。一般人が日常的に利用している音響類型は概ね長短三和音を基礎としたものであり、その配列(和声進行)も体系化され規制されているという事実には変わりがない。
もちろん、オクターブの同一性を意識しているような文明人は、オクターブという響きを「和声」として捉えているはずであるが、その「差別化」は単音の差別化と同じであるので、「和声の」差異として捉えることはありえない。さらにその先にも「(完全)五度」という和声が存在することが想定される。それは「協和音」として二つの音による和音としても、「響き」としての和声と捉えることもできるものである。なぜ五度が「空虚」五度などと呼ばれ、三和音のように整理して体系化されなかったのだろうか? それは、五度はまだ「二音の和音」として把握するほうが、その響きによって把握するより単純であること、また2つのピッチ・クラス要素のみによるユニットは他のユニットと差別化するに十分な差異を持たなかったからであると考えられる。
印象派以後の技法として「五度和声」というものがある。三度抜きの、いわゆる「空虚」五度とその累積で曲を構成するわけだが、五度和声も実質その転回形たる四度和声も、それぞれの差異と体系化によって使用されているとは言えない。その理由を明確に言うことは難しいが、おそらく「長短三和音」というものに内在する非対称性、すなわち完全五度の枠組みの間に長三度と短三度が嵌め込まれている構造が、明確な認識の決め手になっているような気がする(それは結局のところ全音階という非対称的な体系に由来している)。それに対して五度和声が茫洋とした印象のために使用されるのは、それが対称な構造を持っていることに原因があるのではないかと考えている。
※「空虚五度」が、ポップスの和声理論において「パワーコード」という名称のもとに使用されているのは非常に面白い現象である。意識的に三度を抜くことによって逆に「パワー」が感じられるのは、カラフルな絵の中で白や黒が目立ったり、日本の美意識において「あるべきものがない」ことが「侘び・寂び」として珍重されたりすることを連想させる。
そのようなことを考えると、「和声」というものは、「響き」一般から帰納されてきたものというよりは、長短の三和音を抽象して成立したものであるという、きわめて平凡な事実に帰着してしまう。すなわち、人間が和音という構造の「響き」を体系化できる最もプリミティブな単位が長短三和音であるということを認めざるを得ないということになる。そうして、この長短三和音を抽象化した和声を時系列に配置すること、すなわち「和声(コード)進行」の定型である「終止形(カデンツ)」を考えることによって、「和声」も確固たる実体となる。
逆に言うと和声進行がなければ和声の認識もない。旋法を基礎とする音楽には、旋法を特徴づける音(「核音」)があるのが通常であり、それが音の枠組み(「テトラコード」など)を作っているので、複数の核音は頭の中で「響き」として捉えられていても不思議ではない。事実このような複数の核音(大抵五度である)を楽器で保続音やドローンとして鳴らすことは、時代や地域の如何を問わず見られる現象である。だからそれを「和声」と言っても差し支えないような気はする。しかし多分その種の音にわざわざ「和声」という名を付けて個物として取り扱うことはあり得ないだろう。それは、和声が「進行」すること、すなわち「その差異において」構築把握されることがないからだ。
※中国文明由来の雅楽では笙の合竹のような、和音をその差異において使用する技法が存在する。確かにこれは様々な種類の「響き」を聴かせる方法ではあるのだが、それは結局楽曲全体を支配する旋法の上にさまざまな音色の装飾を加えているのであって、それが楽曲を構成する原理になっているわけではないと思われる。(多分、ほかの文明にも同様な技法が存在するだろう。)
この「和声進行」こそが、これまた非常にあいまいな定義の元に使用されている「調性」というものの本質である。すなわち、西洋近代音楽は「和声」を発明することによって豊かな音楽資源を開発したのだが、その和声の発明は三和音の使用に触発されたものであって、結果的に「和声=三和音」という図式を形成し、それと同時に「調性」という構造が成立した、という歴史的経過を考えることができる。
ここで繰り返しになるが、「響き」の種類は幅広く、それを容易に認識できるように、和声の種類は非常に厳密に制限され、またその組み合わせである和声進行の基本的な定型も極めて少数のパターンに限定されている。フーゴ―・リーマンのように長短2種類の和声がT・S・Dの三種の機能によって運用されるだけというのは、いかになんでも限定し過ぎのような気はするのだが、しかしそれぐらい限定しないと、音楽というそもそも抽象的な存在の確実な認識を確保できないというのが、ある意味「音楽理論」が成立するゆえんであると言える。このように基本的な定型を提示することにより、それに対する豊かなバリエーションが生じるので、ある意味「制約こそが創造の母である」という名言の典型的な実例になっていると言うこともできよう。
このように、「三和音―和声―調性」という三位一体のセットが存在する状況において、和声というモノをもっときちんと理論づけたいという欲求が出てくるのは無理もないことである。頭書の本には、和声を物理的基礎から理論づけるための様々な努力(ツァルリーノ、ラモー、フェティス、リーマン等)が記載されていて、苦労している学者たちには気の毒ながら第三者的に見るとなかなか面白い。この三和音の理論づけとその運用についても、書きたいことは山ほどあるのだが、あまりに長くなるので別の機会に譲りたい(ご興味のある方は前掲書をお読みください)。ただし一つだけ言うとすれば、「音楽の学問は数学ではなく認知科学である」ということを決して忘れてはならない、というのが私の信念である。
さて、この本は最後の段階において、このような三和音の抽象化と調性の基礎としての和声から離れて、あらゆる「響き」の分類方法としての和声の追及に話を進めている。これが「ピッチ・クラス・セット理論」というものなのだが、まあほとんどの方にはなじみのない概念であると思われるので、ここでいったん区切って稿を改めることとしたい。
コメントをお書きください