さて今回は、前回予告していた「ピッチクラス・セット(PCS)理論」についてであるが、これは前回の最後に出てきたバビットの十二音技法構築のアイデアにヒントを得て音楽理論家のアレン・フォートが創出した和声の分析手法で、日本では下記の解説書が出版されている。
前回までの話の流れに沿えば、だいたいこの分析手法も想像できると思うのだが、早い話がこの理論は、既往の和声がピッチクラスの組み合わせであることから類推して、あらゆるピッチクラスの組み合わせを(その時間的配置にかかわらず)「和声」と考えようというモノである。
これは米国ではかなり有力な分析方法であるとのことで、日本でも作曲家や理論家などで勉強した人は結構多いようだが、その割に「何の意味があるのか分からない」「分析結果がつまらない」とかで離れていく人が多いという話がある。「分からない」「つまらない」で片付けてしまうのは簡単だろうと思うが、私のような片意地な人間は「なぜ分からないのか」「なぜつまらないのか」をすぐに考えてしまうという悪い癖がある。拙著にも記載したが前回話題にした十二音技法でも、ひところ全盛を極めた手法がなぜ全く顧みられなくなったのか(シェーンベルクが言うように『これで100年間はいける!』とはならなかったようである)、腹に落ちるような説明がないとどうも不安を感じる。「もう過去の技法なのでどうでもいい」と言って済ますことは、学問の良心だろうかと思わずにはおれない。
私もこの解説書を斜め読みしただけなのだが(特に、手法の解説に続く膨大なケーススタディや資料をじっくり読むのは苦痛である)、ごく簡単に説明すると、これは音楽の一部分を切り取って、そこに含まれる諸々のピッチクラスを一つの集合体(セット)として和声の対応物(?)と考えるものである。対象となるのは音高(ピッチハイト)ではなくピッチクラスなので、当然現実の曲内で音がどのオクターブに置かれるかはPCSの同一性を損なわない。実際の作業においてはピッチクラスの構成音を一定のルールにより順番を並べ替えたり移高したりして、重複がないように考慮されている。
古典和声の場合バスに特別の地位があり、バスの位置によって同一和声内で「転回」という操作が行われる。PCSにも「転回」という操作があるのだが、これは伝統的な用語で言うならばむしろ「反行」であって、音程関係の上下を反転させるものである(十二音技法においては重要な操作とされている)。ここで「転回」したPCSは元のPCSと同一性があるとされるが、例えば古典和声において長三和音の音程関係を反転させたものは短三和音なので(リーマンが擁護した「下方倍音列」を思い出させる)、これが同一とみなされるのはかなり違和感がある。すなわち、PCSを分類する要素はそこに特定の音程関係が存在することだけであって、その各音程がどのように配置されているかにはあまり興味がない、ということが言えるようだ。
※事実、PCS理論においては個々のPCSに含まれる音程(「転回」形で同一であるものを整理後)の数を並べたものを「音程行ベクトル」として、これが(実際にその音程がどこに位置するかを問わず)PCSの特質を決定するとしているようである。ということは、PCSは各種の広い音程、狭い音程の数量でその質が決まるのかもしれない。また、反行型を同一視することで、PCSの種類を圧縮できるということもあるだろう。
PCSの理論というのは、結局そのようにして三音以上のピッチクラスのあらゆる重複を除いた組み合わせをリストアップし、実際の曲の中でどういう組み合わせが使用されているかを分析するものである。こういう機械的、網羅的なリストアップは世界を制覇するアメリカ人の体質のようで、あらゆる音の組み合わせを列挙してメロディを分類しようとする方向性はニコラス・スロニムスキーの「音階と旋律のシソーラス」とか、ジョゼフ・シリンガーの「シリンガー・システム」とか、ダミアン・リールによる全旋律パターンの著作権登録とか、枚挙にいとまがない。
そこでPCS理論では、そのようにして分類されるPCSの実際上での使用例、例えばPCSの一つが他のPCSのスーパーセット(上位集合)やサブセット(下位集合)であるとか、補集合の関係にあるとか、音程行ベクトルの類似があるとかでPCSを評価しているのだが、正直入り口段階ですでに疑問の山があるので、なかなかついていくのは難しい。これを見て率直に思うのは、やはりこの理論もセリエル系の理論と同じで、認識される対象としてよりも「書かれた」対象に対する理論であり、「そのように聞かれるか」には無頓着な理論である、ということだ。
前回記載したことの繰り返しになるが、そもそも同時的に鳴る音を正当に認識するのは難しい。そのために古典和声はその種類を三和音など極めて少数のものに限定し、それを配置した場合相互の差異が明確になるようにしている。そのうえで和声の配置に「終止形」のような「定型」を設定し、受け手の負担の軽減を図っているのだ。ところが、十二音セリーやPCSは「分類」はなされていても、それは「響きのモデル」として認識できるようなものではない。なぜ特性が認識しにくいかというと、それはこれらのものに個物性が弱いからだ。
そもそもPCSを音楽の中に発見すること自体が難しい。前回十二音セリーを「和声の緩い連続体のようなもの」かもしれないと述べたが、それと全く同様に、継起的に配置された「旋律」まがいのもの(の一部分)の中にPCSを見出すことは非常に曖昧模糊とした作業である。そのうえ、PCSには200ほどの類型があり(2音、10音、11音からなるセットは数少ないこともありこれに含まれない)、論者はこれを上記のような特性によってさらに分類しようとしてはいるようであるが、これを認識することは至難の業であると言わざるを得ない。例えばこの多数のPCSの中で長短三和音を構成するPCSは1種類であり、それが規範的な響きとして古典和声法を支配している状況と、これらの200あまりの類型を認識しようとすることは、根本的な相違がある。個々のPCSの個物性は、このようなPCS群の大海の中に埋もれてしまい、差異を容易に認識することができないように思われる。
個物性が認識できないということと、それを上位分節に構築することが困難であるということは、表裏の関係にある。古典和声が上位分節に構築された際にその差異によって個物認識され、またその最も容易な認識を与えるような上位分節が「定型」(=終止形)となることによって普遍性を獲得したような過程(このシステムを「調性」と呼んでいいだろう)が、PCSの場合には考えにくいことが分かる。
※例によって、この種の分析によくある言説として、「明示的には認識できなくても無意識に認識されており、それが大局的には差異の認識(?)につながる」などという話が出てきそうな悪い予感がする。
古典の曲で和声として分析できるフレーズを見ると、確かに和声を構成するピッチクラスに相当する音が使用されていることが多いが、その音に旋律を構成するピッチハイトとしての意義もまた認められる。前回述べた通り、旋律と和声はそれぞれが重層的に併存しており、双方が融合した「なにものか」が認識されるわけではない。一応PCSは音をピッチクラスとして捉えているところからして同時的構築に対する理論と考えられるのだが、その分析の対象は「現実に存在する音」であって、古典和声のような抽象的な存在ではない。従ってそこには継起的に構築されあるいは(旋律として)聞かれるであろう音も含まれている。すなわち、十二音セリー同様にPCSにも「非和声音」という概念はない。PCSはそこに現に存在するピッチクラスの総体であって、現状ではなんらかの規範によってそこに存在するものではないと言える。
以上、PCSは一種の「和声の理論」ではあるものの、我々が通常考えるような古典和声とはかなり格差があるもののようである。われわれはその格差をどのように考えたらいいのだろうか? 先に述べたように、PCSは「音程行ベクトル」によって分類されることを想定しているようである。これは様々な幅の音程が各々どの程度PCS内に含まれるかを示すものである。もし長短の2度が多数含まれ、それが近くに配置されておれば、旧来の用語でいうところの「不協和度」が高い和音構成である、ということが言えそうであり、逆に比較的音程の幅の広い長短3度以上が間隔を置いて含まれれば「協和度の高い」構成であると言えそうである。
ここで詳細に述べることはできないが、私は三和音が「上部倍音列」の存在によって理論づけられるという、どの教科書にも当然のように載っている理論に大きな疑念を抱いている。長短三和音は音程行ベクトルにおいて音程が行の右寄り中心に集中している特殊な構成であり、それはこの構成が極めて「協和性が高い」ことを(当たり前の話だが)意味している。三和音は「上部倍音列に一致する」云々の問題以前に、そもそも「よくハモる」ことによって特殊性を認められているという気がしている。ということはPCSの本質は、曲のある一部を捉えてその部分が「協和感/不協和感が強い」「音が少なくてすっきりしているか、多くてごちゃごちゃしている」というような、感覚的に境目の微妙な問題を取扱っているものであるということが言えるのではないだろうか。
結論として私的には、このような「分類マニア」的な分析方法が何か本質的なものを提示することができるかどうかには大きな疑問を持っており、できれば私が音楽を聴くときの普段の態度である「ボケーッと」していても認識できるような差異を示してくれる分析・構築方法を提示してもらえればとてもありがたい、という意識がある。そういう話をすると、現代音楽はそもそも高度な認識を要求するのが当然のものであり、気楽に音楽を聴きたいなどという甘っちょろい態度で理解できないのは当たり前と言われるのだが、それは音楽の可能性を非常に局限してしまう議論ではないかと懸念する。とは言え、本書を通じてPCSというモノに向き合うことによって、あらためて和声という実体を見直すことができたのは得難い経験であり、このような検討を進めることによって、結果的に「現代音楽が難しい」というのはどういうことなのか?がより鮮明になることを期待できるように思われる。
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