前回、ハイデガーの三つの退屈形態の分析と、それに対して「人間は自由であることを認識し、決断することができる」というハイデガー独特の解決法についての記述を見てきたが、第6章ではこの「自由であること」の意味が問われる。ハイデガーによれば、人間以外の動物は「世界貧乏(ひんぼう)的」であり、これに対して人間は「世界形成的」である。この意味について著者は、ユクスキュルの「環世界」論を参照しながら解説する。
動物は環境に対して特定の見方、利用の仕方をするように本能づけられている(これをハイデガーは「とりさらわれている(とらわれている)」と表現する)。すなわち動物にはそれぞれ決まった「環世界」が存在する。しかし、人間は環境を自分独自の視点で捉え、いろいろな用途に利用する、すなわち「環世界」間を移動することができる。(ハイデガーは人間と動物の対比を鮮明にするために「動物は常にとらわれている」という方向性で考えるが、著者はそれも程度問題であり、動物も場合によって行動パターンを変化させるし、また人間もとらわれることがあるというのがポイントだと言う。)こうしてハイデガーは、環世界間を移動できる人間にとって、一つの環世界にとらわれ続けることが「退屈」の本質であり、人間はそういう「自由」を持っているのだから、退屈を嘆くのではなく決断によって積極的に事態を打開しないといけない、という結論に達する。
しかしながら続く第7章において、著者はこういう「決断」によって第三形式の退屈から脱出することが、退屈からの本質的な脱却であるかどうかについて疑問を呈する。なぜならば人間はこうして自ら飛び込む決断に縛られ、その奴隷となる。それは場合によって目的に至る道筋で別の(第一形式の)退屈を生むかもしれない。
すなわち、第三形式の退屈に耐えられない者は決断によって方向性を定め、それによって退屈から逃れることができるが、それは様々な可能性を限局することであって、極端な場合は自分を一種の「狂気」に追い込むことかもしれない(例えば、大義に生きるテロリストはそのような生き方を選んだのだと言うこともできる)。結局、第三形式の退屈を感じるのも第一形式の束縛と退屈の危険を冒して決断することも、いずれも一種の極端なのであって、人間の通常の生活とはどっちつかずの第二形式の退屈を生きることにあるというのが、著者の見解になる。
ここで著者はアレクサンドル・コジェーヴという哲学者の「歴史の終わり」という考え方を批判的に紹介する。人間は幸福を与える社会を作るために懸命に模索し、人間の社会は進化を続けてきた。そういうものが人間の「本来的」な生き方である(前回ご紹介した第4章の議論参照)。しかしそういう過程が終了したら、人間はもうそれ以上努力せず、現状に満足する動物的な生を生きるだろうというのである。ちなみにそれを打開するのが「茶道」や「切腹」のようなスノビズムだというのだが、今時こんな話を真に受ける人もいないだろう。しかしこういう考え方は、努力によって退屈の第三形式を打開することが人間の「本来的な」生き方であるという考え方を引きずっている。
これに対して著者の考え方は概ね以下のようなものである。生物の本性は何も考えないで済む「安定と均整」を求めるものであり、反復→習慣→安定からなる「快原理」に動かされる。しかし人間の場合はそこに第三形式や第一形式の「退屈」が生じるのであり、それに動かされはするもののまた退屈の第二形式に戻ってくることを繰り返すものである。そのため人間は環世界間の移動によってこの第二形式に対応する様々な退屈しのぎを開発してきたし、また意図的にでなく外的環境の変化、出来事等によってそのような退屈から脱出することもある。そういう場合に、人間はそのようなものに「とりさらわれる」、すなわち動物的になることによって、退屈を忘れることができる。
結果として著者があとがきに呈示するのは、三つの結論(一つの考え方と二つの処方箋)である。まず、最初は「どういう生き方をすればいいか」などと思い煩う必要はないというものである。著者はスピノザを引用しながら、暇と退屈について古人が考えてきたことを本書によって理解した者は、すでに自分の悩みについて自分で考える方法論を手に入れていると言う。
続いて二つの処方箋である。一つは「贅沢を取り戻すこと」である。商業的に与えられる「観念の消費」が悪循環を呼び、「疎外」という現象が生まれることは前回の第4章で語られているが、そうではなく「物を受け取れるようになること=贅沢すること」が重要で、それこそが「第二の退屈を生きること=人間であること」の要諦である。ところが物を受け取ることは簡単ではない。ハイデガーは第二の退屈を例示する際に食事や音楽を楽しんだというのだが、その描写はさっぱり具体的ではない。これはハイデガーにそれらのものを受け取る能力技術がなかったためだと思われる。そういう技術がなければ結局商業的に注ぎ込まれる記号の権化を消費するしか途はなくなる。そのためには(高尚なものだけでなく日常的なものをも)「楽しむための訓練」がどうしても必要であると著者は言う。
二つ目の処方箋は「動物になりきること、(ひとつの)環世界を生きること、とりさらわれること」である。動物のみならず、人間も環世界にとりさらわれることがある。だから人間が「動物的」になりひとつの環世界にとりさらわれる場合、第二の退屈は生じない可能性がある。しかし人間は動物と違いさまざまな環世界を移動することができるため、環世界への習慣化という順応能力が高く、すぐ新しい環世界に退屈してしまう。これに対する方法は、よい強いとらわれの対象を見つけることしかない。それは著者に言わせれば「考えること」である。退屈の第二形式に生きている人間は安定と均整の中にあり、つまり余裕がある。上記の一つ目の処方箋によれば、物を受け取る贅沢が退屈から脱出する秘訣であり、その物が「何かを考えることを強制するもの」であるならば、それを受け取ることによってより深い「とりさらわれ」に遭遇することになる。
※実は正月明けからこのブログを書いているのだが、書き始めるとこの環世界に完全に「とりさらわれている」自分を実感する。「自分のウェブサイトに上げる」という目的があるためでもあるが、特にこういう哲学がらみの本を自分なりに理解しようとすると、気が付くと午前になっていたりすることはしょっちゅうで、退屈している場合ではないと感じる。
さて、本編はここまでで、分厚い本の割には何を今更という当たり前の結論であり、まあその当たり前のことを納得することが大事というのだが、実はこのブログを書くきっかけになったのはこの文庫版の付録にある「傷と運命」という文章ゆえである。
そもそも本編では退屈の起源について暇ができたからという説明がなされているのだが、なぜ暇になれば退屈するのかという肝心の点について詳しい説明があるわけではない。それに対しこの付録ではサリエンシー(Saliency「突出物」「目立つこと」)という精神医学上の概念を使った説明が試みられている。人間は生起するあらゆる刺激(サリエンシー)に対してその反復構造を把握し予測モデルを立てることでそれから身を守る術を身に着けている。小児科医熊谷晋一郎によれば、もしその予測モデルが正しく機能していれば、それが「身体の輪郭」として立ち現れる。ドゥルーズの表現によるとこの過程は、刺激に対して「拘束」すなわち「表象を相互に結合し、比較的安定した形態を構成し維持しようとする」こと(これはまさに音楽様式の成立と同じプロセスである)で発生し、これら拘束された刺激の総体が「自我」を形成する。
しかし刺激の中には容易に拘束しきれない(慣れなることのない)刺激も存在し、それはいわゆるトラウマとなってPTSDやフラッシュバックの原因となる(実は私もこの類の精神的悩みが絶えない性格である)。熊谷の慢性疼痛に関する研究では、そのような患者に対して別の鋭い刺激を与えると、それがむしろ「報酬」として感じられる。すなわち大きな刺激は別の刺激を覆い隠す。慢性的な痛みによって人間はサリエンシーに反応しやすくなり、悪い記憶ばかりが表面化するのだが、急性の痛みによって精神が覚醒し自動的な修正作用が活性化され、サリエンシーへの反応度が低下する(本書には詳しい過程が解説されているが、煩雑なので省略する)。
人間は基本的にサリエンシーを避けるものであるが、刺激のない環境が続くと覚醒度合いの低下とともに過去の傷跡を想起してしまい、人間はそのような状況から「逃げたい」、すなわち新たな刺激を求めたいという感情を抱く。これが負の感情としての「退屈」の正体である、というわけである。著者は最後に、精神疾患の治療に使われる「当事者研究」すなわち本人の悩みを聞き手に話す方式(私も受けたことがある)を紹介し、サリエンシーの反復構造に対する予測モデルを構築することに「他人の協力」が重要であって、それが、人間が理解者を求めようとする行動に関連しているのではないか(それが本性において刺激を避けつつも、刺激を求めなければならない人間の「運命」である)という仮説を提示して本書を締めくくっている。
以上、長々と本書の概要を記載してきたが、かなり私流の要約と解釈が入っているので、著者に「そんなことは言っていない」と言われる危険性が無きにしも非ずである。基本的に私は「倫理学」すなわち「いかに生きるべきか」といった問題を、老い先短いいまさら真剣に悩むような気分でもないので、その方面に興味は薄いのだが、しかしそういう問題がなぜ生ずるのかという事情には関心がある。それでここからがやっと「音楽ブログ」の本題なのだが(前置きが長かった…)、まず「暇と退屈」と音楽の関連についてである。
ハイデガーはおいしい食事を取り音楽を聴いて「楽しい」一夜を過ごし、あとで考えてみれば退屈だったなどと言う。つまり彼には(食事もそうだが)音楽が退屈しのぎには全くならなかった。それは音楽がつまらなかったせいか? 当日楽しいパーティーで聴いた音楽がどういうものだったかは全く述べられておらず、ということは彼にとってはどうでもよかったということだろうが、それが「運命」のような激烈な曲や現代音楽っぽい理解不能な曲でなかったことは想像に難くない。パーティーの主催者マダムとしては当たり障りのないBGM(多分当時のサロン音楽)を鳴らすのが常道だろう。
彼はパーティーに招待されて出席し、特に聴くために行ったのではないが、その場にふさわしい耳触りの良い音楽を聴いたわけである。それには強烈な刺激もなく、とりさらわれる要素もない。しかしそれは「招待パーティー」という条件からは当然のものである。そもそも彼はなぜパーティーに行ったのか? 別に刺激を求めてお化け屋敷に行ったわけではない。彼は当日暇があり、パーティーでは客をもてなすのに相応しいおいしい料理が出て本人も談笑で楽しんだ。本人のための小さなサプライズ程度はあったかもしれないが、常識的に強い刺激が必要な場とは考えられない。つまり彼は、マダムの提供した「手軽に拘束されるべき穏やかなサリエンシー」の提供によって、退屈を霞ませるような強烈な「退屈しのぎ」ではなく、自分で予期した通りの「暇つぶし」を行ったのだ(だから、あとで退屈を感じるのは当然と言える)。
もしハイデガーのような物事を考えすぎる人間を暇の中に放置したらどうなるか? きっと「なんとなく退屈だ」という第三形式にはまり込み、その結果何らかのサリエンシーに満ちた束縛を求める(決断する)ことになるかもしれない。さすがにテロリストにはならないだろうし、哲学上重要な仕事をしたかもしれないが、その結果第一形式の退屈にひっかかるかもしれず、一仕事終了後には第二形式の退屈に辿り着くことになる。そういう場面においてこのパーティーが退屈だったとか非難される謂れは何もない。
本書は「退屈」という負の感情がメインテーマであり、それに対応するための音楽のような積極的な活動(文化行動)に焦点が当たっていないイメージがある。そのため、本書の記載はどこまで行っても退屈から逃れられないような結論に見えるかもしれない。しかし「退屈の第二形式を生きる」ことはずっと退屈し続けの悲惨な人生を送ることではないだろう。この本の帯にも書いてあるように「人生にはパンだけでなくバラも必要だ」というのが本書の結論であるならば、どのようなバラを調達して飾るかが人生の課題の一つとなってもおかしくはない。
実は、前回冒頭に説明した私の考える「余暇活動」がこの退屈論と密接に関連するものである。「傷と運命」においては、過去の傷の記憶をより強いサリエンシーで覆うことが精神的な快感をもたらすとされている。私の考える余暇活動の存在意義も全く同様で、これは人間の意識が覚醒度の低下によって柔軟性を失ったときに思い出される想念(後悔のみならず未来に対する不安なども)を何らかの別の刺激による覚醒で覆うことにある(私はそのような行動を「Divertimento(気分転換)」と呼んでいる)。
すなわち、人間は暇になったからと言って飼い猫のようにすぐ寝てしまうわけではない。刺激によって活性化していた脳の覚醒度は低下するが、その効果として抑圧されていたさまざまな記憶(悪いことも良いことも、どうでもいいことも含め)が脳裏に浮上する。もちろん上記のような負の想念が浮上することは特に問題が大きい。しかも、覚醒度の低下(脳の疲労)によって脳の柔軟性が失われており、思考の方向性が局限されがちである。私の考える「余暇活動」はこれを開放することである。
したがって、「余暇活動」に使用される脳の機能は、生存活動に使用される部分と極力異なっていることが必要である。これがいわゆる「文化行動」が実生活から遊離している理由である。脳の異なった部分を使用することで、暇なのに負の想念の浮上によって休めない脳を休ませるわけであるが、例によって日本人の「生真面目な」性格からこれが「一時的な現実逃避」であって「根本的な問題解決にならない」等と言われることが多いような気がする。しかしながら、私はこのような余暇活動を経て人間が脳の柔軟性を回復し、さまざまな刺激の記憶を客観的に見る方法を回復すること(ドゥルーズ的に言えば、「刺激を拘束すること」)は、傷ついた精神の永続的な救済になるものであると信じている。
※妙なたとえだが、キャッチセールスに引っかからない秘訣は一晩寝てから考えることであるという話がある。寝ている間も脳は様々な情報を整理し利用しやすい場所に位置付けているらしい。寝ている余裕のない人間に対して、余暇活動が同様の作用を及ぼすと考えることも可能なような気がする。
さて、私が余暇活動の典型と考える音楽についてであるが、以前にも書いてきたように私の考える音楽の定義とは「それに集中できるような、あるいは集中するために構築された音」であり、その条件は①安全であり②機能と構造がきちんと認識でき③繰返しの利用に耐える内容を持つ(すなわち安全・便利・丈夫である)ような音の構築である。いかに芸術至上主義者からの異論を受けても、これだけは譲れない。
暇なハイデガーをもてなすためにマダムが準備した音楽は彼には強烈なサリエンシーを与えなかった。それは、それが過度な意識の集中を意図的に避けるようなものだったからである。そのパーティーが「演奏会」ではなくて単なる会食であったことを考えると、これは当然のことである。そういうものの存在意義は「意識を適度に阻害すること」である。もし談笑が途切れた時に訪れるのが完全な沈黙であったなら、その場の雰囲気は一気に緊張することだろう。そういう時に何らかの集中対象が存在することは非常に重要であり、これがBGMというものの機能である。しかしそれは談笑の雰囲気に戻れないほどサリエントな刺激であってはならない。集中しているようなしていないような、趣味がいいなりにどうでもいいような対象がここでは一番重要である。(私は「音楽の起源」「音楽の本質」と言われるようなものも、意外に多くがこの「意識の阻害」の活用であると考えている。)
これに関して「傷と運命」に出てくる「予測モデル」という概念が思い起こされる。サリエンシーに対して人間はその反復構造を理解し予測を行い、刺激を減少させるのだった。もしその場で流れていた音楽がBGM的であったとすれば、それは「予測可能」であったことを意味している。それが誰でも知っているポピュラーな曲であるとすればもちろん、ほとんど知らない曲であっても既存の予測モデルにはまるような、例えば「導音が主音に解決する」というような明確なルールがあれば予測は容易である。そのようなことを考えていけば当日パーティ席上で聴かれた音楽がどのようなものであったか大体想像は付くだろう。
ここで念押ししておかなければならないことは、サリエンシーと「曲の価値」ははっきり異なるということだ。何度でも聴きたい名曲というものはあるし、古典的な曲や刺激の少ない曲が駄目なわけでもない。曲の価値は特定のアフォーダンスのためにいかに適切に構築がなされているか、という点に尽きると思われる。そのようなものはそういう機能を求める受け手によって何度でも、また適切なタイミングや方法で求められるだろう。
しかしながらまた、曲の価値は受け手がそれを認識することによって生じることを忘れるわけにはいかない。本文の第一の処方箋にあったように「楽しむための訓練」は重要である。音楽についても、それを十全に利用するためにはそれなりの知識の蓄積が必要になる。
先に述べたように音楽は曲の機能と音の構造をきちんと認識することである。ハイデガーもそうだと思われるがほとんどの現代人は、ポップス以下今日聴かれる音楽のほとんどを支配している西洋近代の古典的な様式を理解しているので、そういったものを聴いてもさほどサリエントであると感じないだろう(すなわち「聞き流す」ことができる)。しかし自分で積極的に金を払って演奏会に行くのにはそれ以上の訓練が必要になるし、退屈の第二形式の中で自分を束縛することなしに退屈から脱出するためにはそれが重要であるということになるだろう。
※上の「構造を認識する」ということが具体的に何を意味するかは非常に難しい問題で、他日項を改めて論じたい。
以上、私の考える余暇活動の存在意義を「暇と退屈」という観点から見てきたが、独居老人となり仕事も辞めてしまった私の毎日は暇と退屈のかたまりのはずだ。ところが音楽に一旦はまると聴くのも演奏するのも作るのも、間違いなく時間を消費する作業で、暇をつぶすどころか暇がいくらあっても足りない現状である。そのおかげで第二形式の退屈を感じることはほぼないのに加えて、本書の第二の処方箋にある通り「考えること」は非常に「とりさらわれる」作業であることは間違いなく、ここ数日肩こりに悩みながらもこの環世界にはまり込んだ状態でブログを書き綴っている。連れ合いがいないことと金がないことを除いては、ある意味非常に幸福な余生を送らせてもらっていると実感するこの頃である。
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小畑正明 (木曜日, 11 1月 2024 11:26)
非常に内容のある面白い文章読ませていただきました。暇と退屈の考察よくできています。ハイディガーの第二形式の退屈の分析と批判も面白かった。
音楽を楽しむには楽しむ訓練が必要である、というのは全く同感です。これは、すべてにいえることですね。怠惰ではほんとうの楽しみは得られないのでしょう。訓練する、あるいは、受けるには退屈ではいられない。自分の技能と感性を高めなければいけないから。これはとくに楽器演奏にあてはまることです。筆者が子供のときに、妹のついていた厳しいことで知られていてピアノの先生が、楽しい楽しい音楽の世界に行くには、長い辛い苦しい訓練を乗り越えていかなければいけないのよ、と言われていたことを思い出します。修練ですね。
人間は刺激に慣れやすい動物であるので、常に、新しい刺激を求める宿命にある、というのも筆者のいまのかんがえです。
もう一つ、暇に関連して、筆者が想起した語句、「小人閑居して不善をなす 君子は必ずその一人を慎む」(『大学』より)、をあげさせて頂きます。音楽に直接関係ないかもしれませんが、紹介された著書を含め西洋の近代思想には欠けている視点ではないかと思いましたが、いかがでしょう?