· 

傑作と名曲

私事だが、この歳で独居生活をする情況になってしまい、何でも自分でやらなくてはならなくなったので、料理などもかなりの部分自炊で賄っている。そうなると、一番気にかかるのは健康管理である。ついつい作りやすいもの、好きなものばかりを作って食べることになるのが危険信号だ。しかしそこはよくしたもので、昔は自分で料理するとなれば洋風の料理、脂気の多い料理ばかりだったのが、どういうものか最近は淡白な和食の方に意識が向かい、それなりに身体の欲するもののバランスが取れているように感じることが多い。

 

私の場合、食べ物に好き嫌いがないのが健康の秘訣と自画自賛している。この食材は絶対食べないなどと公言する人もよく見るのだが、アレルギーがある場合はともかく、食わず嫌いやあまり理由のない場合も多く、そういう人は環世界の多様性を自ら減殺しているのであって、せっかくこれだけいろいろなものが存在するこの世界に生まれてきたのに、もったいないと思う。

 

もちろん、嫌いなものを無理して食べさせられ苦痛を感じるのは、人生においてプラスにならないと感じる人もあるだろう。しかし拙著で強調している通り、人間は常に多様性の存在する環境下で生活するように進化した動物なのであって、好きだからと言って同じものばかり食べていては体にいい訳はないだろうと思う。

 

私に関して言えば、若干ではあるが海外勤務も経験し、あまり日本人向きでないものもとりあえずトライしてみた経験からして、生理的に無理というものは本当に少ないという確信を抱いている。しかし逆に言うと、それは食べ物をいい加減に味わっているからであって、食べ物に真剣に向き合えばやはり「うまいモノ」と「まずいモノ」の違いは明確になり、何でも食べられるなどと言うのは、ちゃんと食べ物を味わっていない証拠と考える人もあるに違いない。

 

私の場合、食生活だけでなく音楽においても、ジャンルに好き嫌いと言うものがほとんどない。昔付き合いで行ったロックコンサートなどは、大音響で耳が壊れそうになり、さすがに「安全」を考えるとあまり聴きたくはないのだが、そのほかは、クラシックは古楽、バロック、古典派、ロマン派、近現代などの全ジャンル、その他内外ポップ・ミュージック、ジャズ、民族音楽、日本のものでは謡曲、義太夫、浪曲、民謡、演歌など何でも聴くし、それぞれに感動できる瞬間があると思っている。(最近では何度も葬式に参席する羽目になり、そのせいで仏教音楽というジャンルに目覚めたりしている。)

 

実は、拙著を書くきっかけになった「トータル・セリエル(総音列主義)」という種類の音楽は聴いても「分かった」とか「快い」という感じがあまりなく、積極的に聴くこともほとんどなかったのだが、たまにいろいろな音楽に聴き飽きた後でブーレーズとかシュトックハウゼンとかの音楽を聴くと、気分がすっきりしたことが過去何度かある。これは私が音楽の聴取に関してしばしば述べている「音楽の構造が明確に認識できた」というすっきり感ではなくて、「構造を認識する」ことを断念して無念無想になった状況が与えるすっきり感である(それがこれらの曲が作られた本来の聴き方かどうかは疑問だが)。

※ちなみに、「4分33秒」は「静寂の音を聴く」と言うような解釈がなされているが、もし「静寂」に重点を置くのであれば、この曲は「無念無想になるための練習曲」という位置づけもできるのではないかと思っている。

 

また、意外性の乏しいロマン派のテクニックで飾り立てたピアノ協奏曲などは、どうも胸焼けしそうであまり食指が動かないのだが、これにも昔から好きな曲というものが存在するし、時と場合によっては拍手喝采したくなるような時もある。

 

だから私の場合、全く興味を惹かれない音楽というものはほとんど存在しないのだが、もちろん耳にタコができているような音楽は聞き流すことも多いし、その一方で「説明できないがとにかく好きな」音楽も(色々なジャンルにおいて)もちろん存在する。私の趣味は19世紀末から20世紀半ばあたりまでの音楽が中心になるのだが、これも人によりけりで、私の神であるラヴェルの作品などを「表面上の美しさを追い求めて真実の深みに欠ける」みたいに言う人があると、「ちょっと待てー」とひとこと言いたくなることも多い。

 

そこで、私の考えているのは「傑作(名作)」と「名曲」は違うのではないか、ということである。私のような法学をかじった人間にはありがちなパターンかもしれないが、私は一種の「定義マニア」で、拙著でも触れているように「和声」「和音」「音階」「旋法」といった用語が、内容をあまりきちんと区別せずに使用されているのが、神経を逆なでするようで非常に気持ちが悪い。それを正すためにはこれらの用語をきちんと定義しなおす必要があるといつも感じている。

 

まあ現実には「傑作」も「名曲」も同じ意味で使われていることは確実なのだが、私のイメージの中では「傑作」は「よく書けている」ということであり、「名曲」は「多くの聴き手から高い評価を得ている」、ということのように感じられる。そのようにあえて定義を区別した時に「傑作=名曲」ではないということが、ここで言いたいことである。

 

「名曲」のほうは、「これを聴いて感動した、また聴きたい」という人間が多ければ名曲である可能性が高いことは明確なのであるが、「傑作」のほうは私の考えでは少々異なる。聴いて感動したという人が一方にいれば感動しない人も必ずいるわけで、たとえ運命であろうと第九であろうと、縁なき衆生には何の価値もないものである。逆に、多数決で名曲が決まるとしても、そこから外れたものにも何かしら支持する人はいるものである。では作品の価値はすべて相対的であって、客観的な価値というものは全く存在しないのかということになると、それは違うとだれしも感じるだろう。

 

私が議論の根底に置き、毎度立ち返る音楽の定義は、「音の構築を認識することに集中すること、またそれが繰り返し容易に行えるような音の構築」である。「感動」という事態は集中に堪える価値があることを知った結果として発生するものである。食事に好き嫌いがあるように、「名曲」の範囲もまた、人類としてある程度の共通点があるとはいえ千差万別であり、個人にも状況にもよることは誰も否定できないだろう(「蓼食う虫も好き好き」)。しかし、上記の定義に該当するように「集中に値するような『音の構築』がきちんと認識でき、その構築がなされている理由が(聴いて)了解できる」という困難な条件を満たすものは限られる。それを「傑作」と言って差し支えないだろう。

 

特定の音の構築を聴いてなぜ感動するのかは、簡単に結論の出る問題ではないように思われる。人間は風の音や波の音にも感動することがある。しかし、良い作曲家は特定の音の構築によって人を音楽に集中させ感動させる方法を知っている。問題はそういう構築に耳を傾けさせ、その構築を認識・理解させることが容易ではないことである。ギブソン的に言えば、それに集中できるような音の構築がそこにあるという「アフォーダンス」を、より多くの人に発見させることこそが音楽の価値であり、それが「傑作」とされる条件なのではないか、ということになる。

 

作曲家(特にクラシックの)は視覚を頼りにして楽譜を書くのだが、自己満足で美しい楽譜を書いたところで、実際に聴いてみてその構造がその通りに認識できる保証はない(私の作曲などその典型で、反省ばかりである)。造形作品であれば「作ること=認識すること」なのだが、音楽の場合は「書く」「演奏する」「聴く」といういくつかの分業がある(それらを一人でこなす場合もあるが)。作曲家の頭の中にある音楽がきちんと聴き手に伝わるためには、作曲家は(演奏家もそうだが)一般的に容認された音に関する文化的合意(音楽形式とか和声法などのルールとか)を活用したり、場合によっては文学テキストなど各種の音楽外要素や演奏におけるシチュエーションを利用したり、あらゆる手段を講じて聴き手を音に集中させる必要がある。古今の傑作を見ると、傑作とされるものは、単純であっても集中できるだけの工夫が秘められている作品、複雑であってもその複雑な構造を容易に認識できるように工夫された作品であることが理解でき、そういう困難さを克服することこそが作品の価値と言ってもいいのではないだろうか。

 

したがって私の分類法では、大抵の「名曲」は何らかの意味で「傑作」であるが、すべての「傑作」が万人の「名曲」であるとは限らない、という話になる。妙な分類を持ち込んでいろいろ述べてきた割には、結論は当たり前でいまさら言うのもどうかという気もするが、音楽評論でも一般的なSNS上の議論でも、贔屓のあまりこれを踏み越えた話が出ることが往々にしてあるように思われる。

 

一般的な音楽評論を見ていると、プロの評論家が書いたものであっても「私は聴いて感動した」的な印象批評に辟易することがままある。感動した理由としてそこに若干の「詩的比喩による説明」を加えるのがよく見られるパターンだが、批評は文学ではなく科学であってほしい(難しい注文だが)というのが私の願いである。もちろん誰にでも理解できるためには「比喩」で語った方が早道である場合が多いのは事実だが、それは音楽の見方を固定してしまい、個人が自分独自の聴き方を発見するのに弊害となる場合も多いと思う。

 

このように書いていると、「では、音楽において価値ある構成とはどのようなもので、それが感動をもたらす機序は何なのか」という核心の話が手付かずであるという批判をいただくかもしれない。この種の話に簡単に結論は出ないだろうと思うのだが、それはやはり音楽形式が形成されてきた経路を地道に見直し、確実なものを一歩一歩積み上げていくしかないのであって、自分の好きな「名曲」をやたらに称揚することではない、というのが私の考えるところである。

 

冒頭の話に戻るが、どうも歳のせいか最近あちこち身体に故障が出てきて、娑婆でやり残していることが多いのに、精神的にも貪欲さが欠けてきたように感じることが多い。同じものばかり食べて同じテレビ番組を見、多様性を欠く生活をしていると、別に何もしなくてもあの世からお迎えが来てくれるという段取りなのだが、そういう悪循環を断ち切るためにも、食生活にも趣味にも、その他の生活全般にも、ますます前向きの姿勢が必要であるというのが、後期高齢者を目前にしての感慨である。(ブログももっと更新しなければ…)

 

 

前の記事        次の記事        ブログトップへ