もう半年以上前の話になるが、アンスティテュ・フランセ京都のフランス音楽アカデミーで、ソルボンヌの教授を招いてのフォーレの室内楽に関するセミナーがあった。講義の後で一人の聴講者から「フォーレの室内楽のフィナーレはどうも軽いように思うが」という質問があり、なかなか面白い問題提起だと思った。これに対する回答(同時通訳)は実のところ最近耳が遠くなったこともあり良く理解できなかったのだが、結論的には「私としてはそんなに軽いとは思わない」という結論だったと記憶している。
その話はその後忘れていたのだが、今年はフォーレのアニバーサリーイヤーとあって、最近よくフォーレを聞く機会があり、改めてこの件について考えてみる気になった。実は私も若い頃フォーレの、特に後期の室内楽を聴くたびに「え、そこで終わるのか?」という微妙な感覚を抱いた時期があった。いまは耳慣れてきたこともあるのか、あまりそういう感覚を抱くことはないものの、この件については若干考えてみるべき点があると思われる。
音楽において「重い/軽い」とはどういう意識だろうか? まず音自体に「重い/軽い」という感覚がある。わかりきった話だが、低音でテンポが遅く、発音が強めで、テヌートとかペザンテとかいう発想記号で演奏される曲は一般に「重い」ということになる。しかし、ここでの重い/軽いはそういう表面的な問題ではなさそうだ。
ここで問題になっている「重い」と感じる音楽の構成だが、私見では「長大、複雑で見通しが効きにくいような音の構築を認識する必要があること」であり、その結果として「深刻」とか「崇高」といったエトスと関連づけられやすいようなものという気がする。こういう傾向を考えると「重い」曲というのは「聴衆に作品への集中と、音の形式の認識に対する意識の緊張の持続を要求する曲」ということが言えるのではないかと思う。
それを考える前提として「意識の緊張とその解除(緩和)」とは何かだが、ここで言う緊張とは「ある事象の発生を記憶し、その展開や結果を予測したり注視したりすること」、その解除とは「その展開や結果が終了したことの確認」である。すなわち、緊張とはいま聴いている音楽がこの先どのように展開していくのかを予測したり確認したりしなければならない状況である。
もし先行きの全く読めない音楽、例えば全く音がランダムに構成されている(ように聞こえる)音楽であれば、人間はそこに何も見出さないだろう。私が常に述べていることだが、音楽は「音の構成を認識するために音の構築に集中すること」であり、そのような特定の音の構成を認識することによって、音楽の受容というものは成り立っている。しかも、そのような認識を容易にするために、音楽には「定型」が用意され、ルールや規範が設定される。そういうルールや規範と音の構造を照合することによって、聴き手は容易に音の構築を「認識」することができる。
ということは、聴き手は今鳴っている、過去鳴ってきた音を「定型」と照合し、今後の展開を予測、期待したり構造を認識したりするのであり、それが音楽聴取における「緊張」を生み出す。そのような予測、期待は充足されることもあり(緊張からの解放)、裏切られて新たな緊張に置かれることもある。きわめて単純な例を挙げれば、和声法においてⅤ⇒Ⅰという完全終止のカデンツは、このような「定型」の典型であり、この形に添って緊張が解放されることもあれば、偽終止によって新たな緊張が生まれることもある。
あるいは「楽式」というようなものも典型的な「定型」である。三部形式の舞曲であれば、主部の後にトリオが来て、その後に主部が再現して曲を締めくくることが予測される。そのために聴き手は主部を記憶しておき、それが再現されることを了解している必要がある。
まあたいていの場合、聴き手はこの種のパターンに慣れすぎており、そこに「緊張⇒解除」が存在することすら意識しないかもしれない。そのような、ほとんど「定型」の範囲内で処理することができるような作品は、多大な「緊張」を要求しない「軽めの」作品であるということができる。これに対して大規模な作品になると、一つの曲の中で今聴いている部分がほかの部分とどういう関係にあるかを常に意識的あるいは無意識的に把握する必要があり、記憶と不確実な予測をフル回転させなければならない。そういうものはやはり一種の「緊張」感を聴き手にもたらす「重い」作品であると言うことができよう。
さて、西洋音楽はまとまりをもった個々の音楽作品を累積することによって大規模化を実現してきた。いわゆる「組形式の曲」というものがそれである。いろいろな音楽を連続して演奏し、聴き手を飽きさせないというのはいずこにもある発想であるが、そのような「プレイリスト」「アルバム」的な緩い結合でなく、組み合わせた全体が一つの「作品」として個物化することが西洋音楽独特の行き方である。
中世教会音楽のように、複数の部分からなるテキストが固定されている場合、このような配慮は必ずしも発生しない。このパターンにおいては「キリエ」も「グローリア」も格別それぞれの特徴を主張することはない。しかし、ルネサンス時代にはすでに複数の舞曲を「組曲」という一つの作品として固定する方法が発生して、その場合これら舞曲それぞれの特性の対比が組曲の構成に利用される、という状況になる。バロック時代に入ると今度は「オペラ」という、場面ごとにそれに相応しい音楽を作曲するという、やはり「構成された組形式の楽曲」が発生するが、これもまさに同じ方向性を持った動きであるということができる。
そうすると、組み合わされた楽曲同士での「重さ」も、特性の一つとして考慮されるようになる。例えば、バロック組曲では舞曲の前に「前奏曲」「序曲」が付加される形になる。これは曲の開始にあたって聴き手に傾聴を要請し、曲への集中を準備させるために違いない。そのためこれら冒頭に置かれた曲には「緊張」を要求するような複雑な手法や目新しい構築が使用される傾向にある。
さらに、この時期「ソナタ」「コンチェルト」といった形式がおそらく組曲から派生してくる。定型的な舞曲ごとの個性によって配列される「組曲」と異なり、ソナタやコンチェルトは器楽奏者の妙技を披露する場であるので、定型的な舞曲の連続より自由な構成が求められる。オペラから派生してきた「シンフォニア」も同様である。これらの楽曲においては、複数の楽章が独自の存在意義をもって作曲されるので、これを一つの作品にまとめ上げる別の論理が必要となる。「急―緩-急」などというルールは、強い緊張で始まった曲にその緩和が続き、最後をまた緊張で締めくくるというような戦略があると思われる。
この種の曲においても最も重い楽章は多くの場合(上記同様の理由から)冒頭楽章である。冒頭楽章では聴き手に明確なイメージを植え付け、本格的に「聴く気にさせる」すなわち楽曲に集中させるために、通常「重い」楽章を置くことになる。これに対して曲を締めくくる最終楽章は、詰め合わされたいくつかの楽章が一体であることを明確にするために、冒頭楽章と同様にある程度の「重さ」を持つことが必要になる(これがいわゆる「シンメトリー」というモノである)。「重―軽―重」の形をとることによって、複数の楽章が「サンドウィッチ」という一個の「個物」になる。言い換えれば、最終楽章には「作品が完全に終わること」を示す役割がある。
ここで、冒頭楽章は聴き手もその気になっているので、「ソナタ形式」というような複雑な形式も緊張感をもって集中して聴き続けることができる。しかしながら最後になってまた緊張に満ちた音楽を聴かされるのは、聴き手にとって負担が大きい。そのため最終楽章には「ロンド」とか「変奏曲」とか、比較的認識の負担の低い分かりやすい形式が選択され、曲の終わりに向けてある程度緊張緩和が図られる傾向がある。これもまた一種の「曲が完全に終わること」を示すための一つの方法論である。緊張でスタートした曲が紆余曲折を経てある程度リラックスした状態になることで、「これで作品が閉じられる」という意識が生じることを期待している。
こういう行き方に反抗するのは何と言ってもベートーヴェンである。彼はとにかく最後まで緊張を途切れさせず自分の曲に最後まで集中してほしい性格なので、徹底的に「重い」最終楽章を書きたがる。「運命」や「第九」では第1楽章より規模が大きい最終楽章を置いて、聴き手に徹底した充実感を与えようとする。しかし、こういう緊張感で聴き手を引っ張るのにも限界がある。例えばベートーヴェンは弦楽四重奏曲第13番のフィナーレとして巨大で複雑なフーガを書いたが、多分その適切さについて後で判断を改め「軽い」ロンドに変更している。これはどちらが「正しい」とか「より美しい」という問題ではなく、要は意識の緊張や記憶を持続できる人間がどれだけいるかという現実的な判断故であろうと思う。
私がいつも言っていることだが、音楽というのは「集中されるべき対象」なので、基本的には集中が途切れないこと、緊張して全曲を聴き切ることが求められる。しかしそうやって意識の集中を継続することは決して容易ではない。だから音楽には重い部分もあれば軽い部分も必要である。もちろん、軽い部分は決して手を抜くことを意味しない。集中と緊張ばかりでは意識は持たないし、極度に集中しなくても受け入れられる部分を「適切に」配置することこそが創作の真に困難な部分だろう。
このように、「緊張と緩和」について考えると、「どこまで緊張を引っ張るか」が一つの構成上のポイントになるということが考えられる。一つの作品が終われば、そこまで引っ張ってきた緊張は解除される。しかしそれで受け手が終わった気になるか、というとそれは別問題だ。例えば文学などでは様々に振られた伏線が最後にきちんと回収されなければ、受け手は「終わった気にならない」ということになるだろう。これは「緊張が(終わる時点で)すべて解除されている」ことを示すものである。
劇作などでは、特に悲劇において最後に向けて話をどんどん収束させていき、クライマックスで一気に終わるような(すなわち緊張が一気に解除される)ようなものが多い一方、喜劇では話が最後に落ち着くところに落ち着き、「大団円」で終わるというパターンが多くみられる。すなわち、最終的に緊張が解除されるのがどのあたりの時点であるかによって「話の重さ・軽さ」が決まるということだ。音楽でも同様に、最後に近いところまで緊張を維持する手法と、最終部分はすでに緊張が解除された状態で終わるものがありそうである。
音楽において「曲が完全に終わろうとしていること」を示すために、上記のように「最終楽章自体を軽めにする」行き方もある一方、それを示すために楽章内部でそのような傾向を示す、あるいは「着地のための部分」を付加することもある。このように付加される部分は通常「コーダ(結尾)」と呼ばれている。こういう配慮はバロック時代であれば例えばフーガの最後に付き物のストレットとかオルゲルプンクトとかで示されるが、古典派時代以降はコーダがかなりの独立性をもって作曲されるケースが増え、今日のポップミュージックまでに至る定番となっている。
そこで、このコーダのあり方だが、やはり上記の二つの方法論が存在している。一つは「運命」のように、コーダにおいてそれまでの緊張を維持したまま、その緊張がいつまでも続かないことを示す、すなわち解除の方向性だけを示し続けることである。それにはいろいろな音楽要素が利用されるが、例えば和声的配慮では次のようなことになる。
和声でV⇒Iという完全終止(強進行)のパターンは一つの緊張⇒解除の典型的パターンである。「運命」では曲全体がこの強進行のバリエーションの累積で成り立っていると言ってもよい。当然、このような巨大な重い作品を終えるのに、最後の完全終止1単位では「終わった気がしない」ということになる。結果としてベートーヴェンが取った手法は、このパターンをいやほど繰り返しているうちに、事実上最終的な緊張解除の方向性が示され、「もうこの先何も新たな緊張は生じない=終わるしかない」と感じさせることにある。ここではリズムやテンポで切迫感が示されるが、それは新たな緊張を生むものではなく「解除」に向けてのスピード感が増すのみである。サティはピアノ曲「枯れた胚種」でこうしたやり方を皮肉っている。
もう一つの方法論は、このコーダが始まる前に緊張を解除してしまうことである。例えば讃美歌に付き物の「アーメン終止」というものがある。これは完全終止の後に変格終止「アーメン」を付加するものである。変格終止(プラガル終止・女性終止)は、主音が前後の和声で共有されかつ特徴的な導音進行を持たないため、緊張と解除の感覚がより希薄である。この部分の付加はまさに「これで音楽は完全に終わった」ことを示す指標である。完全終止で一旦曲自体は終わっているのだが、それを確実にするためには一層の緊張の緩和が必要である。先の「運命」の場合、緊張解除の方向に進んだまま、曲が終わってやっと完全な緊張の解除という話になるのだが、アーメン終止の場合最終の終止の前にすでに緊張は解除されているので、聴き手としては落ち着いて曲の終わりを実感することになる。こういう行き方が拡大されると、例えばブラームスの第3交響曲の最終楽章のような形になるものと考えられる。
ロマン派の時代に入ると、「運命」型、すなわち定型の累積で曲を構築し、最後は定型のみを繰り返すことでもう新しいものが出現しないことを予感させるような作り方に対して、「ブラ3」型、すなわち本体とは異なる性格のコーダを置いて「これで完全に終わった」ことを納得させる様式が増えてくる。これは結局、音楽の中身に多様性が増大した結果、例えば完全終止の反復で曲の終結を予告させるような(サティに皮肉られるような)単純明快な手法が取れなくなった、ということだろうと思われる。
また一方、楽章構成においても古典派時代の「楽式の常識、定型」が徐々に崩壊するとともに、中間楽章、特に緩徐楽章でもじっくりと複雑な構成を聴かせたいという作曲家の思惑が生じるようになる。こうして「重い」緩徐楽章が最後に置かれるようなパターン(ベートーヴェンのピアノソナタ32番などがその嚆矢である)が新たに生ずるほかに、重い中間楽章の後に置かれた最終楽章が一層「軽め」になるような傾向が出現する(特に室内楽作品に多いように思われる)。
さて、例によって前置きが非常に長くなったが、本題のフォーレの室内楽である。例えばピアノ五重奏曲第1番を見ると、フィナーレの冒頭などメロディラインも和声も単純で、その形式も変奏曲という分かりやすい開始であり、イメージとしては確かに「軽い」気がする。これは上記ロマン派特有の傾向の表れとして、第1楽章のほかに第2楽章も息の長い旋律線を持つ「重い」楽章なので、第3楽章冒頭に「軽め」のものを持ってきたいというフォーレの意識が見えそうである。(同様に、第2番の最終楽章にも、メロディやリズムでやはり「軽み」を感じさせる傾向がある。)
とは言えこのフィナーレの楽章自体は中間でいろいろに複雑な展開があり規模も決して短くはなく、私が昔「軽い」と感じた理由はそれだけではないような気がする。フォーレはこの曲に若干の「軽み」を演出しながらも、きちんと「サンドウィッチ」で曲を構成できるように、十分な内容を曲に与えている。それでもこのフィナーレに軽みを感じるのは、多分この曲が「運命」と同じような「定型による」「しつこい」終わり方をしていないからである。
このフィナーレを見ると(2番もややその傾向があるが)フォーレはこの楽章に明確な構成を感じさせるような主題の対比や古典的な和声構造の設計などを用いず、曲がひたすら淡々と流れることを重視しているように思われる。「運命」の場合であれば特徴的な主題がいくつも登場し、展開されて高度だが明快な構築を見せた後、最後の場面ではそれらを総出にして、とどめを刺すように例の強進行の連続のコーダで曲を終わらせる。しかしフォーレの場合は単純な旋律一つが耳に残るだけで、楽節の区切りも曖昧であり、どこからが終結部かコーダかすら一見して明確ではない。
このように、フォーレのフィナーレは、ここに来て新たな緊張をもたらすような要素を意識的に避け、曲の区切りをぼかして楽節の構成を明確に示さない傾向にある。また和声構造などを見ても同様に線的な動きによって区切りをぼかす傾向にある。このように強いインパクトのない主題、輪郭のはっきりしない展開などで明確な緊張関係を極力回避してきた結果、そもそも「終止に対する準備」の必要性が低く、特に和声的にも「ここで終わる」強力な必然性が薄い。これによって「運命」のような「しつこい終止の予告」が不要または無意味になった、ということができる。これらが、このフィナーレを「軽く」している一つの要因ではないだろうか。
考えてみれば、これらの特徴はまさにフォーレの様式を形作っているともいえるので、たまたまフィナーレというものの性格上それが強調されるのかもしれない。主題の対比と展開、明確なカデンツの積み重ねによる和声構造の前提があってこそ、しつこい終止が生きてくるし必要でもあって、それはまさにフォーレの音楽の行き方と正反対であるということも言える。とは言え、このフィナーレの作りはこの曲の第1楽章に比べてもインパクトが弱く構成が「薄い」印象は免れず、楽章間の関係性を配慮して意識的に「軽め」に作ってあることは疑いないものと思われる。(詳しい話は省くが、第2番もほぼ同様のことが言えると思う。)
ところで、フォーレがネクトゥーに語ったという「私はいつもフィナーレで失敗する」という発言はどう考えたらいいのだろうか? 以上のような考察からすると、これらの曲が「軽い」のは別にフォーレの失敗と見なす必要はないように思われる。にもかかわらずこのような発言があったとするならば、それは「運命」のようなフィナーレを期待する人に対する弁解、あるいは皮肉のようなものであったかもしれない。(もちろん、フォーレほどの大作曲家には素人には見えない瑕瑾が感じられたのかもしれないが。)いずれにせよこれらのフィナーレの「軽さ」は、何度か聴いているうちに先行の楽章の「重さ」を受けて、「曲を終わらせる」ための必須の「着陸用パラシュート」であるように、私には感じられる。フォーレの音楽はその微妙な転調や息の長い楽節構成などから、それを正当に聴くためには絶え間ない集中と緊張の持続が必要になり、これを最終的に解除するためにはフィナーレには若干でも軽めのものが救いになるような気がする。
この疑問を会場で提起された方は、年末に五重奏曲2曲を大阪で演奏されるとのことなので、是非聴きに伺いたいと思っている。私は決してフォーレの専門家ではないが、その音楽を愛することにおいて人後に落ちないと自負するものであり、どのような解釈で奏されるのか、非常に楽しみである。
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桝井敬弘 (水曜日, 16 10月 2024 10:42)
感想と思って読み始めると、立派な評論になっていて驚愕�僕の同級生にこんなに博学の方がいることに感謝と尊敬の念を隠すことができません。
有山晃一 (水曜日, 16 10月 2024 10:51)
わざわざ読んでいただきありがとうございます! 一生懸命ブログを書いていても、なかなかまともに反応してくれる人もないのですが、コメントをいただけると力が湧きます。と言っても素人の寝言みたいなものなので話半分に聞いておいてください。
万一「ヒマでヒマでしょうがない」ことがありましたら、ほかの記事や著書も読んでみてくださいね✋