2025年あけましておめでとうございます。
本年の皆様のご健勝とご多幸をお祈りし、あわせて引続き当ブログとのお付き合いを何卒よろしくお願いいたします。
昨年は、私事ですが11月に心筋梗塞で入院するというアクシデントがあり、病床でこの先の人生を若干ながらも見つめる機会となりました。仕事から足を洗って以来漫然たる「趣味三昧」の生活に浸ってきたわけですが、限りある余生をこのままだらだらと過ごしていくのではなく着実に目標を決めて、後に残していきたいと思うもの、断捨離して整理すべきものを区別し、前進する年にしたいと思います。
目標がいくつかある中で、今年最も注力したいと思っているのは4年前に電子書籍で出した音楽論の改訂です。内容を見直すとともに充実させる予定ですが、構想ばかり拡大してなかなかまとめる方が追いつきません。検討すべき項目も山ほどあり、果たして年内にまとまるのか疑問もあるのですが、私のライフワークとして全力で取り組みたいと思っています。
また、昨年は私にとって様々な方との新たな出会い(再会や新たな知己)が爆発的に広がった年でした。本ブログでも発信に努めたいと思いますので、本年も何卒よろしくお願いいたします。
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さて、年賀は以上にして、当ブログ本来の「音楽ブログ」に立ち戻り、ここからはいつものパターンでブログ記事を書くこととしたい。テーマの「周期性と単位」ということだが、当然お分かりいただける通り、巡り来る正月にちなんだものであり、かつ上にも記載した拙著の内容に密接に関係しているので、しばしお付き合いいただきたい。今回、年賀状を兼ねてブログを書いているので、本ブログにご縁のない方もお読みいただく可能性があることを前提に、音楽ファンの方にはやや耳タコの話になるかもしれないが、以下やや平易簡略に記載する。
拙著をお読みいただいた方はごく少数であると自覚しているので、初めにそのポイント部分を若干ご紹介する。(いま改訂作業に際し、原著では意図がよく伝わらないと思われる部分を書き直している。)
「音楽とは何か」に対する私の基本的な考え方は、「言語でない集中(志向、注目)されるための音で、その存在、その性質、その性質相互間の関係を認識するためのもの」である。それが「何の役に立つか」、それが「美しいか」などは、その結果として生ずるものであって、音楽であるための条件ではない。上記の目的のために、通常音楽には「音の性質や音の組合わせを認識するための仕掛け」がいろいろと組み込まれている。
例えば「音の高さ」を認識するためには「音階」というルールが設定されている。これがなければ酔っぱらいの寝言か唸り声ぐらいにしか聞こえないものが、音階に沿って歌うことによって「歌」という音楽として聞こえるというものである。
音の高さというものは聞こえないほどの高音から低音まで、あらゆる周波数の音が存在するわけだが、我々は今日ほとんど、1オクターブの中に12個の異なった音がある「平均律」というシステムを利用している。しかもその12個の音の内、ドレミファソラシの7つの音で音楽を作るのが、西洋で発達した近代音楽のルールになっている。
平均律のポイントは、12個の音の関係(「音程」と呼ばれる)がすべて同じ間隔すなわち「半音」であることだ。これが「半音」と呼ばれるのは、先に「全音」が決まって、「半音」がその半分ぐらいだろうということになったからに違いない。では「全音」がどうして決まったのかというと、それは先に「よくハモる音程」があって、それから決まったと考えられる。
例えば男と女が同じ歌を歌えばそれは「オクターブ」という音程で歌っている可能性が高い。歌っている当の本人たちはハモっているという感覚はなく「同じ音」で歌っているつもりである。これは音の周波数で言えば1対2という単純な数比になるわけである。同様に、周波数が2対3になる関係は例えば「ド」に対する「ソ」の音であって、これもよくハモると認められている。同様にして3対4も「ハモる音程」と認められている。
結論から言うと、「全音」というのはこういう「ハモる音」同士の関係から決まった音程である。音楽理論の本を見ると、大抵こういう理論を考えたのはギリシャの数学者ピタゴラスであると書いてあるのだが、本人がピタゴラスの定理を発見したというのと同種の眉唾な話に感じられる。ピタゴラスが生まれる何千年前から弦楽器(竪琴など)の奏者にはそんな話は当たり前だったことは確実だ。ところでこうして「全音」が決まり、似たようなプロセスから「半音」が決まると、残念ながらこの半音を12個足し上げて行っても(音楽理論に詳しい方ならよくご存じの通り)、元の「オクターブ」とぴったり一致しない。「音程を足す」ことは即ち「掛け算をする」ことなので、それを続けるとどんどん複雑な分数ができるばかりで、それが元の1対2とぴったり一致するわけがないのである。
しかしぴったり一致はしないものの、どういう訳か12個足した結果が「大体」1対2になるという事実があって、そのため上に述べた「オクターブの中に12の等しい半音がある」という平均律というものが成立している。これに何らかの理由があるのか知りたいと思うのだが、現状「ありえないような偶然」と考えるしかないようだ。そのおかげで我々は今日ピアノなどの鍵盤楽器(もちろん平均律で調律されている)の和音を聴いて「ハモっている」という感覚(錯覚?)で楽しむことができる。
しかし世の中にはそういういい加減な方法を許したくないウルサ方もいて、ピアノみたいなすぐ音の減衰する楽器はやむを得ないとしても、弦楽器や声楽ではちゃんとハモる音程(これを「純正律」と呼ぶ)でないと気持ちが悪いという人が必ずいるものである。そのために平均律が公認されていなかったバロック時代にはさまざまな音律が発明された歴史もある。中には、オクターブを12で割るより53で割った方がオクターブとの一致がぴったりすると言って「53平均律」などという極端なものを考案した人までいるのだが、そんなものが認識できる人がこの世にあろうとはとても思われない。
ところで、「ド」から半音を12個積み重ねるとまた「ド」に戻るように、「暦」というものも12ヶ月経つとまた正月に戻るという周期性(モジュラー性)があるのは面白いことである。これも1年という地球の太陽に対する公転周期を1ヶ月という月の地球に対する公転周期で割り算したものなので、音律同様に「ぴったり一致する」ことはありえず、どうしても大小の月や閏月などが発生してしまう。それでもそれがほぼ12という数字に落ち着くのはある意味不思議な現象である。12という数字は古代オリエントやエジプトの時代から「いろいろな数字で割り切れる」という利点から日常的に使用されてきたようだが、これが天体の運動と一致するというのもなかなか興味深い現象である。あるいは逆に、そういう現象に対する興味から天文学は成立したのかもしれない。であれば、オクターブがおよそ12に等分できるという事実も、それが今これだけ音楽が発展している一つの理由であるのかもしれないという逆の論理も考えられると思うのだ。
(※)ついでながら、ここで詳述はできないが、半音が12個という「割り切れやすい」数の音階の中に、これを不均等に分割するドレミファソラシの7音が「主要な音」として存在するシステムは、音楽の多様性を高めるうえで(特に近代において)極めて重要な役割を果たしている。これについてはまた本ブログ上で取り上げたい。
いずれにせよ、人間は絶え間なく流れる時間の中で適当に「正月」という起点を決め、周期的な「年、月、日」といった単位を設定することによって、時間という本来節目のないものを把握しようとしてきた。これが人間の思考を支配している一つの大原則である。同様に音楽においても同様に適当に起点を決めて(一応「ラ」の音が440ヘルツ前後などということになっている)、そこに周期的なオクターブという単位を設定し、かつそれを半音という均等な単位に分割する方法によって、今日の音楽は成り立っているわけである。
このように「単位に分割する」というやり方は人間が何かを認識把握しようとするときに一番便利なやり方であると言うことができる。境目のはっきりしないものを認識することはそもそも難しく、人間は境目のないところにも何かの標識を造ろうとする(中には「国境線」などというつまらないものもある)。音階にせよ暦にせよ、人間は何とかこれらを単位化して「数字」として扱うことができるように努力してきた。その結果現代文明はアナログからデジタルに向かって雪崩を打っているところである。
さらに言えば、人間が明確に認識できるものは、「単位」となるような塊(個体、個物)であるということである。「何かが分かる」ということは「分けることができる」ということである(「理解」という言葉も、やはり「切れ目に沿って分ける」という意味である)。例えば流暢な英語の発音を聞いてどこが単語の境目か分からないようでは、意味を担う単語を認識することができない。そういう塊(個体、個物)に分割できることこそが、そこにそれが存在することに気付くこと(「志向」すること)であり、音楽の理解もそのようなものであるというのが、拙著を通じて一貫した私の考えである(これは上に述べた音の高さのほかに、リズムとか和声とか音楽形式とか、音楽を構成するすべての要素に当てはまる)。
しかし間違ってはいけないのだが、そのように便利な方法として数字を使用することで、一種の過剰反応が生ずる。よく「音楽は音になった数学である」などということが言われるのだが、音楽における数学的なモノとは算数かせいぜい中学数学程度、それもある程度デジタル化の進んだ諸文明下における音楽(西欧のみならずある程度発達した文明には必然的に発生するようだが)の場合に限る、ということだ。「そこに数学などの論理があれば、それが音として聞こえるはずだ」という信念によって作られた「わけの分からない現代音楽」も多いのだが、そんなことが保証されているわけではない。
むしろ本当の音楽を支配しているのは「認知科学」である。上に述べたように平均律の「協和音」は決して奇麗にハモることはない。とは言え我々はショパンの名曲を聴くときに、すべての和音が耐えられないような不協和音であると感じるだろうか? 我々が聴くのは「錯覚」としての協和音であり、経済学でよく見るような「非合理的な判断」であったりもするし、われわれが音楽に聴くものが上に述べたような「個物」の存在の認識が基本であることは、今も昔も変わらない現実のように思われる。そうして、一番大事なのは自分の耳の判断(およびそれを鍛えること)であり、自分の耳にどう聞こえるかということが音楽におけるすべてであることを忘れてはならないと思う。
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なお、紙面の関係で詳述できなかった音階の成立過程について、以前QUORAというQ&Aサイトに投稿したものがありますので、ご興味のある方は併せてご覧ください(Ariyama Koichiの名で投稿しているものです)。
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